なおやんの 手記手記 しゅっき〜

なおやんの 手記手記 しゅっき~

痛みに耐えて よく頑張った

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死臭おじさん

出会い

死臭おじさん に初めて出会ったのは3ヶ月ほど前だろうか


“死臭”という表現はどう考えても美しい日本語ではないし、そんな名詞を他人に被せるのはどうかと思うけど、そのおじさんに出会ったとき、瞬間的に頭に浮かんでしまったワードだから仕方がない
後でこの名称についてはきちんと撤回をする

 

さて誰しも、必要のない無駄な固定費というものがあると思う
人によってそれはタバコであったり酒であったり様々であるが、自分は毎朝通勤に使う特急代がそれにあたる
毎朝起きて無意識にスマホを手に取り、30秒で特急券を購入する

無意識ゆえそれは固定費となってしまっている

 

その日もいつものように朝起きて空席状況を確認する
珍しく車両の1番後ろの席が空いていた 他の席は大方埋まっているのに不自然にその席だけ空いている 1番後ろはリクライニングを最大まで倒しても文句を言われないため、おそらく1番人気が高い席だろう にも関わらず空席となっている理由など考えず、迷わずその席をゲットし、フラフラとした足取りで洗面台へ向かった

 

死臭おじさん が自分の1つ前の席に乗ってきたのは尺土駅であった 見た目は、ガキ使のなんやねん50人斬りで浜田が唯一敗れたおじいちゃんに似ていた

 

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乗ってきた瞬間は何も思わなかった

しかしおじさんが乗り込んで数秒して電車が動き出したあたりで、突然私は「死」に包まれた

 

死臭おじさんとは

「死」を感じさせる人とは何であろうか
例えば特急で自分の隣の席にほぼ裸の角田信朗が乗り込んできたとする

 

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これは間違いなく「死」である 人生で角田のことを信用したことがないし、おそらく彼は面識のない人間に対して暴力を振るう
ここにおける「死」とは、角田信朗に殴られて殺されるという、直接的な「死」である

 

死臭おじさんは全く性質が違った
その臭いとは、“死後時間の経った遺体を腐らせないようにする薬品”の臭いであった
ただ、そんな薬品の名前もわからないため、とりあえず死臭おじさんという最低の名前をつけた 内蔵が腐っているとか体が半分溶けているとかそういった意味ではない

ここで改めて名前をつけるとすれば、「死の床(Shinotoco)おじさん」である
人生において、その臭いと対面するのは、主に親族や知り合いの葬式、通夜の機会であろう
つまり「自分ではなく他人」の、「安らかな死」であり、そういった意味合いから「死の床おじさん」と呼ぶのがふさわしいように思う
以下愛称として「トコ爺」と記載する

 

ある程度擁護するようなことを書いたが、尺土駅を発車して1分後には吐きそうになっていた 臭い自体が強烈というわけではないが、やはり死というのは忌み嫌われるものであり、その記憶と直結しているという点での不快さも加味されて、朝から最悪な気分になっていた
しかしこの臭い自体はおそらく誰しもが1度は嗅いだことがあるのではないか そういった意味で決して縁のない臭いではなく、むしろ避けて通ることのできない、身近な臭いではないかとも思えた


尺土駅を出て10分後には、トコ爺によって「死の床」の映像が鮮明になっていた
そこで寝かされているのは誰だろうか 自分の祖父母か、はたまた親か、友人か …いや「自分自身」かもしれない
先ほど「自分ではなく他人」の「安らかな死」と書いたが、この臭いを嗅ぎ続けていると、様々な死が連想され、挙句の果てに、「自分」の「悲劇的な死」すらも連想されるようになってきていた
しかし誰が遺体役であろうと、それは静かに布団に横たえられ、あたりには穏やかな時間が流れていた それは自分の生活から切り離された光景とは思えなかった

 

車窓には分団登校をする小学生やホームで列車を待つサラリーマン、そして人間の英知の結晶ともいえる高さ300mのあべのハルカスが映し出される

 

人々が最も「生」のパワーを働かせる朝の時間に、車窓の活気溢れる街並みを眺めながら、自分は「死」に浸っていた

 

 

 

 

「死とは身近なものである」

 

 

 

トコ爺は 背中でそう語っていた

 

  

コロナ禍における身近な死

この記事を書いたのは先々週久々にトコ爺に遭遇したからである それは自粛明け、まだ慣れない出勤に浮足立ち、朝から死を浴びたあの体験のことをすっかり忘れ、また同じ席に座ってしまったからであった


4月の半ばに発令された緊急事態宣言により怒涛の勢いで突入したこの自粛期間というのは本当に人生で経験したことがない類のものであり、特に何もしていないけども、おそらく一生忘れられない1ヶ月半となった
そんな異常な状況下においては自粛警察なるものが私刑を下し、外出したものを取り締まっていた
徳島なんか本当に陰湿で、生まれ故郷ながら本当に恥ずかしくなる思いだった 祖母いわく徳島の感染者第1号は村八分に耐えきれず引っ越したらしい

そんな連中を情けなく思いながらも、日頃政府への文句だけを下痢のように垂れ流す奴が緊急事態宣言下において楽しそうに外出しているのをSNSで見ると、自分もなにか、やはり怒りのようなものがわいてきてしまっていたのは事実であった

 

しかしそんな自分も2週間前から普通に酒を飲みに外へ出ている
「おいおいめでたいダブルスタンダート売国奴やないかい」と思うかもしれない
実際に先々週に飲みに出かけたときには、わりかし知り合いから批判を食らった
もちろんこの批判も十分に理解できる
この前のそこまで言って委員会辛坊治郎が「コロナ議論が白熱する原因は各個人へのコロナへの恐れ方があまりにも違うからである」というようなことを言っていたけど、まあその通りじゃないかなと思ってしまう

そしてこんなことを書けば「コロナに強がって自分だけが感染しないと思っている正常性バイコクドやないかい!」と思う人もいるかもしれんけども、あくまでコロナにはビビっている

ただ、過剰なまでにビビりすぎた結果もたさらされる、「もう1つの死」を恐れているのである

 

ここであるサイトの記事を引用する

前にも観光地訪問の際の事前期待値について書く際に引用したことがあるサイトで、よく見るのだが、ここにこういう記述がある

 

感染症対策と経済対策は、トレードオフの関係にあります。
ただ、死者数と経済価値では、相対比較のしようがありませんから、私は、完全失業率と自殺者数との関係(1%悪化すると3000人弱、自殺者が増える)から自殺者数を敢えて試算し、相対比較できるようにしています。
これによると、秋から回復基調にのるという楽観的なシナリオでも、喪失する市場規模は7.8兆円。失業者は95万人〜280万人。ここから推計される自殺者数は2,000人〜12,000人となっています。
2020年4月7日現在の、日本でのコロナによる死者は92名。海外でも、2,000名を超えるのはベルギーや中国、イランなど、ごく一部です。これは、疾病に比して、経済危機は、大変危険な存在であることを示しています。
ただ,自殺者は、経済対策によって救うことも出来ます。ウィルスは、どんなに金を積んでも慶されませんが、景気は対策のしようがあるからです。
しかしながら、その経済対策にも限度があります。
政府は、事業規模108兆円という最大級の経済対策を展開予定ですが、実際の財政措置は39兆円であり、さらに執行段階における事務費も引かれることを考えれば、決して、万全といえるものではないでしょう。
つまり、完全ロックダウンまで行かなくても、過度な自粛が進めば、経済苦による自殺者という「目に見えない」被害者が多く発生することになります。
コロナによる死亡者のみに注目するなら、強固な隔離政策を展開することが有効ですが、それを、ワクチン開発する時まで持続したら、病死者より自殺者の方が遥かに多く発生することになるということです。
医療機関の対応能力に収まる水準までの感染を社会的に許容しながら、経済への悪影響も抑えられるだけ抑えていく。
言い換えれば、病死者も自殺者も出すことにはなるが、それが社会的に最小に収まっていく状態を作り出す。これが、コロナ禍の「収束」状態、人類とコロナの均衡状態なのだと思っています。
究極の選択というか、悪魔の選択というか。やるせない気持ちになりますが、このバランスをどう取っていくのかが、我々に課せられている大きな選択だと思います。

resort-jp.com

 


自分はこの記事を読み、とりあえずここに書かれてあることに依拠した行動を取ろうと決めてしまった それほどこの記事に書かれていることはわかりやすく、また重大であるように思われたからである

つまりコロナ禍においてはダブルスタンダートであっても構わない、むしろそうするべきだと自分は考えている

また感染者数増加の兆しが見えれば「自粛せなあかんで!」と自分はコロっと態度を改めるに違いない しかしその手のひら返しには何の罪の意識もないのである


他人のダブルスタンダートが許せない、またコロコロと変わる政府の指針に転がされるのがしんどい、という人は家から一切出なければいい話で、それはそれで1つの考えとして否定する気はない
ただ、経済による「身近だけど見えない死」が見落とされ、未知の感染症で死ぬという「派手で恐ろしい死」ばかりがクローズアップされると大変なことになるという危惧は持っておいたほうがいい気がする

 

 

そして無理やり付け加えるわけではなく、自分は昔から、日常生活においてもたまたまこれと似たような考えをある状況下において適用させていた

 

それは、”徒歩・自転車で移動するときの経路選択”である

 

死の天秤 

年中半袖半パンの元気な学童

「寒さなんてへっちゃらだよ」と平気で言い放ち、憎めないおとぼけフェイスで周囲を明るく

いつも馬鹿みたいに笑ってるから風邪ひかないのかな??なーんて先生も呆れ顔

 

どの小学校にも1人はいるそんな学童 それが私であった

 

そんな私が小学校3年くらいのときであった

近所の友人の家に遊びに行った帰り、何も考えずに道を歩いていた

学童の「何も考えていない」は本当に何も考えていないので、当然左右確認もせず道へ飛び出す

ふと右を見るとタクシーが目の前まで迫っていた

 

意味がわからなかった なぜ急にタクシーは自分を殺しにきているのか

急すぎて走馬灯を見る余裕すらなかった あのハイライト見たさに人生やっている節もあるのでそんな急に人生を終わらされたらやり切れなかっただろうなと思う

結果的にタクの運ちゃんのアイルトンセナのようなブレーキ技術によりお陀仏は避けられた 人生における1度目の失敗においてあっけなく人は死ぬことがあるんだなと思わされた経験であった 

 

これ以降、過度に交通事故を恐れるようになった

昔から健康体であるため、寿命を迎えずに死ぬなら交通事故だろうなという確信があった

信号の無い道を渡るときは、「もし横断中に自分が路上で転倒して、なおかつコケた自分を見た車の運転手がパニクってアクセルペダルを全力で踏んだとして、そしてなおかつそれを見た自分が恐怖のあまり腰を抜かしてほふく前進でしか移動できなくなったとしても歩道に逃げ切れる距離」が車との間にあることを確認して渡る

 

そして交通事故に対するリスク管理として、経路選択というものが非常に重要になってくる

  

 

夜の帰り道 目の前には二手に分かれる道がある

どちらの道を選んだとしても家にたどり着くことができる

左の道は車通りが多く、歩道もないが、周りには民家や商店が立ち並び、ひと目につくし治安も良い

右の道は街灯もロクになく、ついている電灯は切れかけ、カスみたいな自治体はそれを放置 周囲には人気がまったくなく、誰かに襲われたとしても誰も助けに来ないような道であることは明白である

 

さてこの2択が用意されると多くの人は左の道を選ぶのではないかと思う やはり気味の悪い道は通りたくないものだし、交通事故よりも暴漢や通り魔のほうが圧倒的に恐ろしく思える

しかし通り魔殺人は多くても年間20件程度なのに対し、交通事故の死者は少なくとも年間3000人は超えており、死亡リスクの観点からは絶対に街灯のないカスみたいな道を選んだ方が正しいのである

そしてこれも「派手で恐ろしい死」によって「身近な死」が見落とされている現象ではないだろうか 自分はコロナショックの前からこういった「死の天秤」についての考えを備え持っていたのである 先見の明アリアリ 大勝利 何があっても自分だけは絶対死なない

 

 死はすぐそこに

死の床に支配された私を乗せた列車は、近鉄で1番乗降車数の多い一大ターミナル、あべの橋駅へ到着する

ここで谷町線へ乗り換えて会社の最寄り駅へ向かう

 

この谷町線天王寺駅というものは利用者数に対して明らかにホーム面積が不足しており、ラッシュ時の安全性にかなり問題がある

いつものように警笛を鳴らして列車がホームへと進入してくる その鉄の塊を恐れないことがさも自慢であるかのごとく、ホームの端ギリギリを何人もの利用者が歩いていく

しかしそのホームの端から数センチ横へズレると死が待っている

それは列車が進入してくるときだけではない、地下鉄の線路横には架線の役割を果たす高圧電気が流れるレールが敷かれてあり、ここに触れるだけでお陀仏となる

いわばホームというのは断崖絶壁であり、落ちればいとも簡単に死ぬのだが、その「身近な死」も日常の中に紛れてしまっている

実際に断崖絶壁の端30センチへ人を立たせるとおそらく一歩足を踏み出すことさえ出来ないはずである

 

 剥奪説

最後に、なぜ死は悪いものであるのか

最近読んだ「『死』とは何か」に記載されている一説に「剥奪説」というものがある

 

 

「人生のこれからにおいて享受し得る様々な出来事を経験する機会を剥奪された」から死は悪いものであるというものである

それならば生を授かる可能性のあった何億もの精子はそれぞれ享受すべき将来を剥奪されており、その1つ1つが可哀想だというのか!という屁理屈をもってこの説は本の中ではおそらく正しいとされていなかった?のであるが、死の恐ろしさはこれに他ならないんじゃないかと自分は思う

だとすればやはり若い人間が死ぬ方がより悲劇的であり、その可能性が高いのは経済的破綻を原因とするものではないだろうか

 

 

さんざん「死」について書いてきたけど、これを考えるのはもちろん苦痛であり、避けたいものである

そんな人にこそ是非朝の南大阪線特急の6号車13Dの席に座ってもらい、逃げることができない死の床体験をしてもらいたい

もちろんここでは詳細な時間は書かないが、本当に死の床を体験したい人には覚悟を持って時間を伝授する所存である

それが恐ろしいなら鹿児島行きのさんふらわあに乗ってみてもいい ”死”に目の前を覆い尽くされる

buffaloes24.hatenablog.com

 

そしてこれをもって 飲み会出席についての自己弁護を終えます