なおやんの 手記手記 しゅっき〜

なおやんの 手記手記 しゅっき~

痛みに耐えて よく頑張った

ブログタイトル

霊はどこから発生するのか

セントラルタワーズ

いま ”JR名古屋駅”の看板を見上げている

看板を見つめ続ける俺の首の角度は上向きから水平レベル、そして下向きへと変化する

もちろん名古屋駅が地面に陥没していったのではない 自分が急上昇しているのである

 

名古屋でしたいことリストの1つに、「ミッドランドスクエアのエレベーターに乗る」というのがあり、名古屋駅前で時間があるときは毎回わざわざ乗りに行く

エレベータ内部の外に面したガラスからは外の景色があまりにもはっきりと見え、そして異常なまでの上昇スピードにより極上のスリルを味わうことができるからである

これが下りになるともはやフリーフォールと変わらないような体験になり、背筋がゾクゾクとする感覚が味わえる

 

そしてもとより高所恐怖症ぎみである自分やけども、このエレベーターだけは頭ひとつ抜けて恐ろしいと毎回思う

その理由が、目の前にそびえ立つ2つの巨大ビル「JRセントラルタワーズ」である

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大成建設HPより

高所へと昇っていく際、目の前の景色が開けていればいるほど恐ろしいのではないかと感じるけれども、個人的には目の前に明らかな巨大ビルがそびえたっていて、そのビルの最上階が近くに迫っているほうが恐ろしく感じる

これは、自分がどれほど高い位置にいるのかを、実際に上ってきたすぐ下の路面を見下ろして実感するのではなく、目の前のビルの大きさと照らし合わせて実感するという、ひとつ段階を踏んだ恐怖となる

 

国民的ホラー映画「仄暗い水の底から」では、母親が娘を抱いて家から出てエレベーターへ乗り込んだところ、今出てきたはずの家のドアがゆっくりと開き、中から娘が出てきてしまうのを、エレベータの中から母親は見てしまう

じゃあ今抱いていたのは誰?となり、振り返ると・・・という、これも段階を踏んだ恐怖となる

 

 

そして先月、弟がハタチになった

自分の年齢を聞かれたらスッと反射的に25歳という数値を口から吐き出すことはできる

ただ一方で”弟がハタチ”という情報をもとに自分の年齢を捉えなおすと、「弟がハタチということはその成長を見届けてきた自分も同じく加齢したわけで・・・」と、急に時間の経過が恐ろしくなることがある

少し年の離れた身近な人間というものはセントラルタワーズのようなものであり、それは時間的尺度ともなりうるし、そこには自分の人生がよりリアルに反映される

自分の全体像を自らの肉眼で見ることは不可能なのである

 

20年前

弟の誕生日になるといつも思い出すことがある

 

弟が生まれたその年、いまの実家に移る前の、大和高田市のマンションに住んでいた

 

その日も何気なしにマンションで過ごしていたはずである 当時5歳、当然記憶も曖昧なので、憶測による記述になる

ただその中でもある一瞬の映像だけは鮮明に残っていた

 

 

ー2000年11月16日深夜

 

「あの・・産まれそうなんですケド。」

 

上地雄輔のアルバム風に母がつぶやく

これは一大事 父親と俺は慌てて支度

行き先病院 ハイビスカス

 

当時はたしか3階に住んでたはずなので、エレベーターで下ることに

1階からエレベーターが上ってくるのを待つ僅かな間、少し母の方をチラっと見る

 

 

母親の襟元から、”手”が垂れていた

 

見えている箇所は肘の少し手先寄りから指先まで、35センチくらいだろうか

何かを訴えるようなそぶりもなく、手の甲を見せた状態でただただ力なく垂れていた

手の色は曖昧であるが、だらりと垂れた手のシルエットは鮮明に記憶されている

すぐさま両親に伝えたのだと思う いまだに両親もこのときの俺の慌てぶりを語ってくれる

そしてその深夜のうちに、弟が誕生した

 

7年前

2度目

そう 人生で2回しかない

 

 

ー2013年 春くらいの休日

 

休日は基本的に吹奏楽部の練習が朝から夕方まである

とにかくその日は眠たくて、昼休みは男子部員との団らんもさっさと切り上げて、1人で屋上へ続く階段を上っていた

屋上への扉は封鎖されているが、その手前になにもないスペース(悪の教典で女子生徒が殺戮される空間)があり、そこで昼寝をしようと考えていた

 

・・・ふと目が覚める いや覚めたわけではなく、脳は睡眠状態にあるものの目だけ開いている状態であった

いわゆる金縛り状態である

耳には管楽器や打楽器の音が聞こえてくる まずい 練習がもう始まってしまっているらしい

しかし動くことはできない

 

そのとき、俺の視界の両端から何かがすーっと伸びてきた

それは2人の生徒であった

視界の左から男子生徒 右から女子生徒 1人ずつ

男の方はショートカットで、女はおかっぱ風のオン眉みたいな髪型をしている

2人とも腰をかなり折り曲げ、覗き込むように上半身だけを俺の視界にかぶせてくる

 

それだけでも異様な光景であったが、2人の顔が近付いてくるにつれ、より奇異なものが目に映った

 

その2人には、”目”がなかったのである

 

目があるはずの箇所はなんの凹凸もなく皮膚がただただ伸びているだけで、目の周辺だけ少し肌色が濃くなっていた

本来であれば「見つめられている」とか「睨まれている」という表現になるのだろうが、なにせ目がないのでこの状況を形容しようがなく、俺の顔と相手の顔が至近距離で正対しているとしか表せない状態であった

コロナ禍における日常的なマスク着用を通じて改めて感じることであるが、人間というのは感情を「目」だけで伝達することが十分に可能であり、目からの情報を遮断されると当然のごとく相手の心情がほとんどわからなくなってしまう

この2人の生徒はいま穏やかな感情で俺と正対しているのか、それとも俺を殺してやろうと思っているのか

ビジュアル的な恐怖よりも、相手の感情がわからないという恐怖のほうがこのときは強かったように思われる

 

後から振り返ってみればお互いが正対していた時間は5秒程度であったがずいぶん長く感じられた

金縛りは知らない間にとけていて、2人の生徒もサッと消えていた

 

起きて慌てて下の階に行くと、まだまだ昼休みの真っ只中で、練習など始まってはいなかった

 

5年前

ー2015年 冬

 

ある日、入っていた軽音サークルの女の子に、大学の構内でふと告げられた

「なおやんって、人の目見ないよね」

 

あぁそうかもしれん 確かに

なんて、チクリとした小言程度に思っていたけど、意識してみると本当に人の目を見ないで生活していたことに気付く

これは改善しなくてはと思うと同時に、よくぞそんなこと指摘してくださったと感謝の念が湧き出た

 

P.S①なおやんってブログタイトルはその子からの呼称がもと

P.S②未だに飼い犬の目もロクに見れません

 

霊分析

内霊

人の目を見ないよね この指摘を受けたときにふと思うことがあった

目に関する出来事

そう、あの目のない男女は俺に何かを訴えたかったのではないか

 

そして考える

俺は目のない人間と対面した

しかし目が無ければ目を合わせることすら出来ないではないか

「人の目を見ろ」とのメッセージを伝えたいのであれば、むしろ巨大な目をした人間が俺をにらみつける方が効果的ではないのだろうか

 

・・・いや違う

風呂場で急にこの答えに思い当たった

 

導き出された答えは、こうである

 

 

 

 

”あれは、吉川晃司であった”

 

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まず、人生においてCOMPLEX「BE MY BABY」の吉川晃司以上に腰を曲げてこちらを覗き込んでくる人間を見たことない

もし自分自身の経験によって作り出される霊というのがあるとすれば、腰を曲げて覗き込む霊なんていうのは吉川晃司の幻影を引きずらざるを得ないのである

視界の両端から覗き込んできた男女の生徒 これはステレオタイプな高校生像で塗り固められた、ただの吉川晃司だったのである

BE MY BABYのPVで両端から吉川晃司が覗き込まれたら割と嫌な気分になるので、あのときの俺もやはり嫌な気分だったんだろうと思う

 

そうなると、BE MY BABYという言葉自体にも意味合いが込められているのではないかと思える

BE MY BABYは「俺の彼女になれ」がおそらく訳として正しい

目のない生徒がこちらに向かって、「俺の彼女になれ」と言うのである

つまり、俺は発言を受ける側の女性ということになる そして女性として相手の目を見ようとするものの、相手には目がないのである

 

ああ、覗き込んできた生徒は俺自身でもあったのだなと気付く

 

例えばお前が将来「俺の彼女になれ」と女性に発言したとして、女性の方からお前を見たら「目のない人間」に見えるに違いない なぜならお前は人の目をみないから

 

と、こう言いたかったのではないか

 

あのとき金縛りにあって正対していた相手は自分自身であったのである

つまり、これは俺の潜在意識下に潜んでおり、俺に忠告を与えようとしてきた霊であり、内的に作り出された霊ということになる

 

 

そうなると、弟が生まれた日における体験も、なにか内的な意識が具現化したものなのであろうか

おそらく母親の襟元からの手は、当時5歳の俺が依存せざるを得なかった「母の体」を手放すという意思の表れではないかと思う

ただ当然そこへの執着もあるわけで、いやいや弟へ引き渡すといった受動的な感情により、手には力がなかったのかもしれない

 

これら内的な霊を内霊(ナイレイ)と呼ぶことにする 当然、造語である

これに対し、外的環境を要因として発生する外霊(ガイレイ)も存在する

 

 

※関連ワード「内チチ」「外チン」については以下を参照

buffaloes24.hatenablog.com

 

外霊

内霊とは、潜在意識下の思想をもとに、本人の今の心境をそのまま具現化したり、本人も気付かないような悩みや欠点を忠告しようとしたり、自己を掘り下げることで顔を出す霊であった

 

対して、外霊とは、なにか物事がうまくいかない 周りの人間も不幸が続いている 等の良くない出来事の捌け口として生まれる霊である

これは本人の精神状態の安定を保つための存在であり、割と長いスパンで存在し、消える際は苦しみつつ現世から退散していくような演技力が求められる

 

例えば、郊外の古民家をリフォームしてそこに移り住んできた家族

しかし引っ越した途端に父親の会社は業績不振によりボーナスカット、息子は高校受験を失敗、母親は謎の頭痛に苦しむ日々

これは古民家にもとから棲みついている霊の仕業であると考えた父親は、古民家の持ち主を調べ始め、この家で50年前にくたばった「貞子」という老婆、こいつが全ての原因であると断定する

理由は、名前が人を呪いそうだから その一点だけで押し通した

この貞子おばあちゃんが、縁側からの陽当たりが差し込む一室で、兄弟・息子夫婦・娘夫婦・孫たちに見守られながら、「大泣きしながら生まれてきたんだから、眠るときは笑顔で、ね」との冗談みたいなセリフを吐きながら安らかにこの世を去ったとしても、そんなことは全く関係がないのである

貞子はこの一家に起きた全責任を背負わされ、そして苦しみつつ現世から押し出されるフリをしなければならないのである

 

しかし貞子おばあちゃんはもう亡くなってしまっているので、誰かが代わりに演技をするしかない

そうなったときに、出番が与えられるのが「下ヨシ子」である

 

 

例えば、内霊に対して下ヨシ子を召喚したとしたらどうであろうか

俺の顔を覗き込んできた霊を分析するにあたり、BE MY BABYのPVに対する知識があることが前提条件となる

内霊の映像化にあたっての元データは個人の経験に左右され、そこに対してのアプローチは他人にはまず不可能なのである

それでなくともおそらく下ヨシ子はおそらく世間のことを何も知らない 非核三原則も答えられない

 

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非核三原則?ホップ・ステップ・ジャンプじゃないの?」

しかしこれが外霊相手になると途端に真価を発揮する

彼女が作り上げた外霊が降りてくると「プレッシャーを感じる」と意味の分からないことを言い出し、それを皮切りに格闘開始となる

姿の見えない相手と懸命にもみ合うさまは、愛媛県大山祇神社にて力士が稲の精霊と相撲をとる「御田植祭」を想起させる

ただ御田植祭との違いは、相手へのリスペクトのなさ、そして相手を半殺しにするという2点である 外霊は勝手に作り上げられた存在なのだからなにをしても許される

あなたになにか良くないことが起こったとき、下ヨシ子先生はきっとあなたを救ってくださいます

 

なにか不可解なものを目にしたとき、潜在意識下までなんとか自己を掘り下げてその物質や現象を分析してみると、思わぬ発見があるかもしれない

同時にそれはあなた自身にとっておそらくプラスになる発見となるのではないかと思う

もし過去にそのようなことがあるのならば、時間の空いたときにぼーっと考えてみてもいいのかもしれない

 

そして、いくら考えても特に引っかかる節がないとき

 

 

それが本物の霊である