「なんで本屋には人が押し寄せへんのやと思う?」
唐突な問いであった
それまでの会話の流れから完全に逸脱した、突拍子もない話であった
あまりにも突拍子がなかったので、その質問が投げかけられた場所すらちゃんと記憶している
三郷町あたりの都会ぶった交差点であった
問いを投げてきたのは高校の吹奏楽部の同級生
基本的に吹奏楽部は皆不仲であったので、未だに遊ぶ同級生は2人くらいしかいない
俺とそいつを乗せた車は信貴山朝護孫子寺へと向かっていた 初詣に行きたかったのである
さてこの質問の意図することは何だろうか
書籍のコンテンツ力が弱くなっており、本屋から人が減っているという、出版業界の行く先を憂う話だろうか
それとも、実際には人は押し寄せているが、うまいこと店内のレイアウトを工夫して客の集中を緩和しているという、やり手の本屋の話だろうか
当然上記のような話ではなかった
もっと突拍子もない質問のはずである だからこそ未だに友人としてつるんでいる
質問の意図はこうであった
本屋の周辺に住む人々がある瞬間、一斉に本屋に行きたいという衝動に駆られることは十分に考えられる
その結果、本屋に溢れんばかりの人々が殺到するのではないか
また、そこまでの客の集中がなくとも、あるとき本屋に訪れた客の大半が三島由紀夫を目当てとしており、三島由紀夫コーナーだけ人が殺到する、なんてことも考えられる
しかし実際には、本屋はいつ訪れようが、どのコーナーも適度で快適な人口密度を保っているのである
これはもしやすると、人の群れは適度に分散させられるようにコントロールされているのではないか?という問いであった
初詣前にこんな問いを投げかけてこないで欲しい
キショすぎる 車を降りようかと思った
しかしそれは非常に興味深いものであり、これは後付けではなく自分自身も何回か考えたことはあったが、深く考えないようにしていた問題であった
例えば仕事の昼休みによく丸亀製麺へと出向くのであるが、その丸亀製麺は梅田の一等地にあるにも関わらず人で溢れることはない
お盆にうどんを受け取ってから満席であることに気付いて右往左往する、なんてことは一回もなく、いつ訪れてもほぼほぼ満員であるにも関わらず、席が与えられない客は決して発生しない
いつも不思議に思っていたがあまり深く考えなかった
考えないように自分を制御していたのかもしれない
おそらく、厭な真実にたどり着いてしまうだろうなと薄々気付いていた
さて、ちゃんとこの問題に向き合うことにして、人間は何かしらの巨大な力によりコントロールされているという前提に立ってみる
そして、この前提に立ったときに問題となるのが、この大本営的な巨大組織のコントロール下に“自分が含まれているか否か”である
過去の記事では、自分以外の人間の自我の有無について懐疑的なことを書いている
自分以外が自我を持っていることを確かめる術が一切ないのだから、こんなことを考えてしまうのも仕方ない
この記事の内容を汲み取ると、明らかな自我を持っている自分はその巨大なコントロール下には置かれていないと考えているように思われるかもしれないが、ここでは自分すら大本営の統治下に存在していると考えることにする
理由は、年末のドキュメント72hを見て泣いたからである
あの番組を見ると、人の生き様は多種多様でなんと美しいものだろうかと感動させられる
皆、自分と同じく自我を持っているはずであり、持っていてほしいという願望にすがりつきたくなるのである
なので、人類は皆自我を持っており、なおかつその上で、なんらかのコントロールを受けていると考えることにした
そうして振り返ると、俺が週に2回も3回も丸亀製麺に行かされることに無性に腹が立ってくる
どこかで発生する人々の流動の帳尻合わせとして、俺は無意識に丸亀製麺へと背中を押されるのである
実はうどん好きでもなんでもなく、単純に役割としてうどん屋の人口密度の維持に努めているだけなのかもしれない
日常を過ごす中で不意に湧き上がる衝動や欲望
これらは本当に自分の内部から発生したものだろうか
それは空から偶然的に降ってきただけの「役割」なのかもしれない