心を揺さぶられる景色たち
旅行好きなんです と自己紹介すると、続けて聞かれる質問というのがある
代表的なのは「よかった都道府県はどこですか?」
「北海道です」だなんて答えるとちょっとがっかりしたような顔をする
ツウぶって「佐賀」とか「埼玉」とか答えればよかったのだろうか
でもやっぱり北海道が1番なのだから仕方がない
次いで聞かれるのは「感動した景色」である
当然これだけ旅行をしていると心を揺さぶられる景色には何度も出会っている
礼文島の桃岩展望台は丘の上にあり、息を切らしながら階段を駆け上ったのだが、待ち構えていた景色に呼吸が一瞬完全に止まった
あまり見たことのない種類の景色なゆえ人為的なものに感じられて、誰がなんの目的で作ったのだろうか なんて考えてしまう
海に向かって続く緑は、深すぎる色がその傾斜を曖昧にしており、目の前の自然が味方か敵かもよくわからない
夢の中のような光景であった
展望台付近の散策路から緑の怪物へ挑むことができた
摩周湖は夏も冬も美しく、第一展望台、第三展望台とでまた違った表情を見せてくれる
奥入瀬の木々は、自分の地元にある渓流とは全く質が違っていた
あまりにもくっきりとした自然の輪郭には羨望と畏怖を感じた
上高地の梓川は近所で起きた白骨温泉入浴剤事件のように青い液体を流し込んでいるのではないかと思われた
千光寺から見た尾道は雑然で穏やかで
祖谷の谷底は果てしなく
特攻隊員が最後に見た日本本土の景色である開聞岳は見る者に様々な感情を想起させる
このように、心を揺さぶられた、感動した、そんな景色はいくつもある
ただ「人生で1番」となるとこれは悩ましい
悩ましいけれども、ほぼ確実にあの景色が1番心を掴まれただろうなというのは存在する
人生で1番感動した景色
大学4回生、最後の春休み
なぜかその時期は「大学を卒業すればもう旅行ができなくなる」そう思い込んでしまい、親に借金をしてまで旅行に行きまくっていた(時間がなければできないような旅行はできたので借金したことは大正解であったと思う)
いまこうして社会人をしながらも余裕で旅行には行けるのだが、あのときのように贅沢な時間の使い方はできないだろうなと思う
お金はないが時間はあったあのときの自分は、兼ねてから行きたかった真冬の北海道へ向かったのである
最初の3日間は友人らとスキーや札幌めぐりをして楽しんだのだが、それ以降は単独行動となり、道東へと突撃することとなった
そのときに見た下の写真の景色がおそらく人生で1番感動したのだと思う
ただ、写真だけ見るとなんのことかよくわからない
あのときは確か弟子屈の川湯温泉に泊まり、次の日も昼くらいまで砂湯(下の記事参照)や硫黄山を見てから知床行きのバスに乗り込んだのであった
当時は自動車の免許も持っていないし、もし持っていたとしても冬の北海道を運転するのは危険が伴う
そんな環境にあって、冬の道東には観光客向けの長距離バスが何本か出ていて、これがめちゃくちゃにありがたい存在なのである
普通は川湯温泉から知床へ行くのには公共交通を使うと非常に手間がかかるのだが、このバスは川湯温泉から直接知床へ向かってくれる
そしてバスの走る道が知床手前でパッと開けたとき、窓から見えたのがこの景色であった
記憶ではトンネルを抜けてすぐこの景色が見えたと思っていたのだが、記憶というのは適当なもので地図をどれだけ見てもトンネルなんてないのである
川端康成の雪国に憧れすぎであった
自分みたいな小作奈良県民は国境の長いトンネル(京奈和道)を抜けてもせいぜい富田林にしか行けないのである
さて写真を再掲する
違う写真もあった
写真の腕前はないので写真の質は一旦置いといて
目の前に広がっていたのはオホーツク海であった
とはいっても真っ白けである
かつてオホーツク海であっただけで、今は死灰の砂漠と化しているのか
当然そんなことはなく、今も現役のオホーツク海である
そう、目の前に広がっていたのは流氷であった
それは人生22年間生きてきて初めて見た自然現象であった
雪も見たことがある ほぼ毎年スキーに通っている
開けた雪原も見た
美しい海も見た
開陽台展望台にてほんとに丸く見える地平線も見た
でも、海の上に氷が敷き詰められて、その彼方に地平線が見えるような景色は見たことがなかった
この氷はロシアまでみっしりと詰まっており、ここをひたすら歩けば国境をまたいでしまうことすら可能なのである
そしてバスはその先のオシンコシンの滝バス停にて一旦休憩タイム
ここで乗客は滝の見学に繰り出す
後ろに異様な気配を感じるので振り返る
ひええ〜 とんでもな〜
そして夕日が沈むまでずっとずっと車窓を眺めていた
なぜ人生で1番か
さてさて、なぜバスから見た流氷の景色が人生イチであったか
それは先ほども述べたように人生で初めて見た自然現象であったこともひとつ
ただ、それ以上の要素が「唐突」であったことだ
これはどういうことか
地方を主語にすると、いまどき写真抜きで観光プロモーションを行うことは不可能に近く、「写真で表現できない観光地は観光地として成立しない」と星野リゾートの星野佳路氏もおっしゃられるように、写真の重要性は非常に大きい
主語を我々観光客にしたときも、旅行先の写真抜きでプランを立てることは難しいだろう
つまり観光客は旅行に出かける前に、その旅行先の景色を写真として紙面またはデジタル媒体で見てしまうのである
そして現地で実際にその景色に出会ったとしても、それは「1度見た景色」なのである
そこで行われるのは「発見」ではなく「確認」に近い
写真で見たあの景色はここだった!という「確認」
当然そこに行かないと景色の奥行きや構成要素というのはわからないので、感動しないかというとそんなことは一切なく、めちゃくちゃ感動する
しかし「もうそれはそれは事前期待値を上回った!」となったとしても、もはやその期待値を超えた感動すらも「織り込み済み」なのではないかと思うのだ
予想を超えた感動は、予想の範疇なのである
休暇中の旅行に求められているものは、旅行会社のパンフレットやテレビ番組で見たことがある写真だ。観光客は結局、旅行前に見た風景を自分で撮影した写真に収めることによって、その場所に本当に行ったと証明しているだけなのだ
「観光のまなざし―現代社会におけるレジャーと旅行」より
彼らは、自分のまわりの環境の特徴にほとんど目を向けない。彼らは単にガイドブックの星の数を確かめ、次の目的地へと急ぐのだ。彼らは場所を経験しない。
「Rasmussen,1964,p161」より
もちろん自分もこのような観光行動を取ってしまうし、これが悪いことであるというつもりは一切ない
ただ、このような観光行動は地域への愛が生まれにくいのではないかと思うのだ
人口減少時代を迎える日本においては、地方で人口が減っていくのに抗い、せめてもの愛だけは各地に行き渡ってほしいのである
日本の各地には色んな文化があり、その文化を吸収した土地と人が存在しているということを、より多くの日本人が理解する必要があると思っている(自分もまだまだ理解できていない)
だから最近は意識してこのような大衆的観光行動からの脱却を図ろうと頑張っている
そのきっかけと取り組みもまた記事にしたい
さて先ほどの話に戻ると、バスの車内から見えた流氷は本当に唐突であった
知床に行けば流氷が見れることは知っていたし、それこそ事前に写真で調べてから向かっていたのであるが、不意に現れた流氷に面食らってしまった
予期せぬ景色は感情の揺れ動きも急激であり、この流氷の景色は体に電気が走ったような感覚であった
結局どんなホラー映画よりも”夜中カーテンを開けるとベランダに人が突っ立っていた”が1番怖いのである
五能線から見た夕日
抜海にて野生のアザラシを見に行こうと思って早朝から港へ向かうと突然現れた利尻山
海上にあまりにも巨大な山がそびえ立つ景色は美しさより恐ろしさが勝るほどの迫力であった
これらは全く予期せぬ、また一過性の景色であるがゆえに深く印象に残っている
今後もこういった景色に出会うために必要なのは以下の2つのワードである
Serendipity セレンディピティ 偶然性
Authenticity オーセンティシティ 本物性
このような絶景はいつ顔を出すかわからない
大事なのは偶然性を大事にすること
移動中にスマホばかりいじくっていてはダメなのである
また点々と名所だけを巡っていてもなかなか電撃的な感動は味わえないかもしれない
そして本物性を尊重する、地域に愛を持って接することで地域の奥深い景色、地域のケツ穴がはっきりと浮かび上がることもある
以上、人生で1番感動した景色の話
みんなの感動した景色、ぜひ教えてください