誕生日に富士山旅行をプレゼントされた
こんなに嬉しいことはない
ハタチを超えてからは歳を取ることが嬉しいことではなくなり、歳なんて取りたくないよおって感じだったのだが、たまには歳を取ってみてもいいかもと思える
富士山というのは関西にいると少し遠い存在であり、新幹線の車内からチラリと眺める程度であった
そもそも関西には富士山のようなシンボル性を持った山というのはあまりなく、山岳信仰の面でいうと吉野熊野地方の歴史ある文化があるものの、山に対して尊敬や畏怖を抱くことはあまりないように感じる
富士吉田に着くとさっそくレンタカーを借りて富士山麓周辺をドライブ
富士吉田市を徘徊するにあたり当然の行為として車内でフジファブリックの「若者のすべて」を流す
曲の盛り上がりとともに道の先に見えてきたのは富士急ハイランド
ノスタルジックな夏の風景が似合うこの曲に対して前方には大型マシンに振り回される人間の阿鼻叫喚絵図が繰り広げられ、世界観を壊すなと抗議したくなる
でもマシン側だって富士山の世界遺産登録に合わせてレールの色を景観に配慮し赤色から茶色にしたり、なんとかノスタルジーに沿うように頑張っているのである
ちなみにこの旅行では富士急ハイランドも一瞬だけ寄って”ええじゃないか”に乗車した
ただ、通常のジェットコースターとは違って前後左右から風がめちゃくちゃに吹き付けるので、マスクがケントデリカットの眼鏡の位置くらいまで伸びたあげく、その反動で眼の場所にビターンと張り付き、ほとんど何も見えない無念の乗車であった
絶叫マシンにマスクは本当に邪魔なので、せめて猿ぐつわを咥えてればオッケーですとかになってほしい
そして、この日は聴けなかったが(今も流れてるのかな?)富士吉田市では夕方のチャイムに若者のすべてが採用されているらしい
「夕方5時のチャイムが〜」という歌詞があるので、この歌をチャイムで流すというのはなんともメタ的であるように思う
チャイムに聞き惚れていると擬人化したチャイムに肩を叩かれ「あの歌詞のチャイムって俺のことなんすよ笑」と言われそう
さて本題
この日は素晴らしい宿に泊まらせてもらい、人生の目標の1つであった「風呂から富士を眺める」が実現できることとなった
部屋にも露天風呂があり、そこから見るプライベート富士も最高であったが、この宿は大浴場の露天風呂がすごかった
露天風呂には寝湯のようなスペースがあり、ゆったりとリクライニングの姿勢を取って富士山温泉に浸かりながら目の前に富士山が望めるのである
時間は夕暮れ時
夕焼けに照らされた富士山はまさに赤富士の姿であり、光の当たり方の変化によって短い時間で様々な表情を見せてくれる
大人になった証拠なのかもしれないが、富士山って昔見たときはもっと大きかったような気がすることがある
目の前の富士山は荘厳で畏怖を抱くような姿でありながらも、接しやすさも感じる、母のような存在であった
このひと月後に富山出張があったのだが、富山市内から見る立山連峰は恐怖を感じた
彼らは半グレである なにをしてくるかわからない
対して富士山は信用に値する倫理観を兼ね備えている気がする
普段は銭湯の壁に描かれた富士山を見てさえ「ありがてえ」と思うのだから、目の前のナマフジは感無量であった
そしてたまたま、旅館の夕食の時間などの関係により、浴場の客がぞろぞろと引き上げていき、10分ほど寝湯スペースに自分ひとりしかいない状況になった
そのとき「独占欲」が湧いた
当然富士山なんて独占できるわけがないのであるが、それでも独占したいという欲望が湧くに至ったのには、①浴場にいるという環境②今この場所で富士山の姿を見ているのは自分だけであること③富士山があまりにも美しいこと、これらが影響していた
まず①から
もうすっかり現代っ子のあたしはなにか美しいモノ、珍しいモノを見るとすぐに写真を撮って共有してしまう
なぜそんなことをするのかは自分でもよくわからない
珍しいモノを見つけた自分には価値がありますよと思ってほしいのか、自分といればこんなものに出会えるかもしれないよさあさあ一緒に遊んでください なのか 単なる生存報告なのかもしれない
ただ浴場には目の前の絶景を記録する媒体が持ち込めない
当然それは肉眼で記憶するしかなかったし、その映像は他人が絶対に見ることができないものであった
また映像がどこででも再現できるものであればそれは大した価値がないかもしれないが、目の前の景色はどう考えても希少性と偶然性があり、そして単純に美しかった
そして②③については、以下の星新一の話が非常に参考になる
その昔、SFがまだ日本では知られていなかったころ、星新一氏はペーパーブックの原初でレイ・ブラッドベリの「火星年代記」を読み、感激した。感激のあまり星さんは東京中の洋書店、古書店をまわり、「火星年代記」を買い漁ったという。誰にも読ませたくなかったのだそうである。ごくふつうの感激であれば公に激賞し、読め読めとひとにすすめているところである。そうした水準の感激をはるかに超えてしまうと対象はもはや自分の一部に同化してしまい、これは自分のものだから自分ひとりのものにしておくのはあたり前という気持が強くなるらしい。
ーー「鵞鳥番の少女」筒井康隆 より
まさにこれと同じことが起こっていた
この景色はいま誰も見ておらず、そして共有したいという俗な感情を超えている景色であるため、もはや自我の一部が移動してしまった
今すぐ富士山に大きな布をかぶせ、誰も見ていないタイミングでちらちらと布をめくりたい
自分のものにしたい
そんな感情にとらわれた瞬間であった
ただ、本来は①がなくとも②→③だけで独占欲が湧くべきなのかもしれない
いままでそういった機会を逃してきた気もする
今後は良いものに出会ったときにすぐ他者に見せつけるのではなく、自分のなかで守り育てるのも大事かもしれないなと思った
そんなことも考えつつぼーっと富士山だけを見て40分ほどお風呂に浸かる
ただ景色だけを見てそんな長時間お風呂に入っていたのは初めての経験であった
気がつくとすっかり日は沈み、それでもかすかに漂う残光が富士山の輪郭を形作っていた
そして旅行を終え、ひと月半が経ち、文字に起こしている
これだけのことを書いているのだから浴場から見た富士山の姿は鮮明に脳裏に焼き付いているのかと思えば、面白いことにこれがなんとも思い出せない
ただすごいものを見たという感情の記憶だけが残り、映像的なものは日が経つにつれて形が柔らかくなっていく感じがする
この結果なにが起こるのかというと「美化」である
初めて訪れたときに感動した観光地、これを再訪すると「あれ大したことないな」と思うことがよくある
これは映像記憶が薄れていくにつれて、映像が良い方向に補完され、勝手に美しさや規模が増大していくことが要因となる
いま自分の脳内でも日に日に富士山の美しさに磨きがかかり、そして肥大化し続けている
先ほど、富士山は昔見たときより小さく見えたと書いたが、次に富士山を見たときも「2022年のGWに見たときよりも小さく見える」と感じるのかもしれない
その瞬間、脳内にて成層圏まで達したメガマウントフジは砕け散るわけであるが、自分の成長とともに肥大化してきたメガマウントフジは大切な存在だ
それは新しく置き換わるものではなく、心のどこかにいつまでもそびえ立ち、見守ってくれる存在なのである
だから美化は決して悪いことではなく、むしろ対象を愛し、寄り添い、心のなかで育てたからこそ起こりうる、尊い現象なのである(美化そのものの美化)
会社帰り、茜色の夕焼け空が広がる大阪
ああもしかすると今も誰かが寝湯から俺の赤富士を眺めているのかなと、ふと抱く寂しさと純粋な羨望
それでもあの日あのときに見た富士山は誰にも見られることがなく、自分の中の金庫にきちんと仕舞い込まれている
誰にも見せるわけにはいかない