なおやんの 手記手記 しゅっき〜

なおやんの 手記手記 しゅっき~

痛みに耐えて よく頑張った

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文章が書けない現象

久々に文章を書こうと思って記事編集画面を開くも驚くほど書けない

文字を打つ手が止まり、頭の中ですーっという森のような音が聞こえる

この音が聞こえるときはもう駄目で、どれだけ頑張っても書けない

 

つまり、いま書いている文章も全然書けない気分のときの文章ということになる

普通、この状態になればもう手を止めて違うことを始め、状態の良い日に書き直すようなことになる

ただ、今回はその状態がいかに普段と違っているか、また単純に書けない状態について少し言語化してみたくなったので頑張って手を動かしている

 

 

もうここまで書いた段階で、明らかに普段の文章よりも劣っている

語彙、言い回し、語尾、リズム感 などなど 書いていて全く気持ちよくない

他人から見たら全て駄文で目くそ鼻くそに思うかもしれないが、自分の中では自分の文章というものは割と好きで、だからこそ良い状態と悪い状態はハッキリと見分けがついてしまう

 

この「書けない状態」とは一体なにか

痰壺のようなブログをもう5年くらいやってきて、さすがにわかってきた

明らかに書けない状態を引き起こす環境がある

それは、「小説を読んでいない」ということ

 

これが本当に不思議で、小説は読んでいないものの自分自身常になにかしらの本は細々と読んでおり、読書習慣というものが途絶えることはないのである

ただ、小説以外の、例えば新書だったり、民俗学の本だったり、そういった文章を読むとびっくりするほど文章が書けなくなる

言葉の引き出しという点で考えると、なにかを論ずるような本を読んだ方が様々なワードに出会えそうだし、きっちりした書き方ができそうなものである

しかし、書いているうちに手が止まる

書きたいことが浮かばないのではない

書きたいことを”どう表現していいか”皆目見当がつかなくなってしまう

 

思ったことをそのまま書けばいいじゃないかと思うかもしれない

しかしそれだと文章が全然膨らんでこない

もう成分さえ接種できればいいから、とパン生地をそのまま生で食べるだろうか

しっかりこねくり回して焼いて、美味しいパンに膨らませてあげないといけないのである

50文字で書けることをいかに1,000文字に膨らませていくか、そこに文章創造の歓びがあると思っている

その過程で思いがけない考えに至ったり、ぼんやり考えていたことがはっきり言語化されたり、想像できないような副次的な効果もついてくる

 

改めて、小説というのは文章のプロがエンターテイメントとして作り上げたものであり、それを読むことが自らに与える影響というのは絶大だなと感じる

自分の文章を読み返しても、この時期は明らかに村上春樹の文章に引っ張られているな、ここはあまりにも筒井康隆だなとかわかってしまう

そしてその影響はあまりにも儚く消えてしまう

具体的にはその小説に一日接するのをやめたらもう効果は消えている

今高松に住んでおり、会社などで四国の方言に触れ合う中で、自然と自らの口から方言(住んだこともない香川や愛媛の方言)が出ることがあって、まさにこの状態に近いなと思っている

 

 

ここまでの話から導き出される結論として、文章を書くにあたっては”大層な熟語”だけがあってもなんの意味もなく、それらをどうリズミカルに散りばめるかが大きな問題となる

普通に考えて、様々な語彙を知っていれば適切に言葉を紡いでいけるかのように思ってしまう

ただ、そうやって書いていく文章というのは自分自身とても退屈で苦痛なものとなる

いかに文章に踊ってもらい、予期せぬ場所へ誘ってもらい、軽やかに着地するか

その過程において、熟語なんてものは大したものではない

語尾や接続詞など、わかりやすく言えば「ひらがな」がどれだけ考えられているか、これに尽きるのではないか

ひらがながきちんと書けていれば、自然と適切な熟語も導き出されるのである

 

 

反啓蒙主義を掲げる私において「周縁」というのは大好きな言葉であるが、文章を書くにあたっても、周縁とされるひらがなに引っ張られる形でメインテーマが動き出すという関係が描けるのではないかと、考えさせられた

 

酷い文章を書いているが、酷い文章からでもこういったある程度の着地はできるということなので無理くりでも文章を書くというのは良いことなのかもしれない

おそらく調子のいいときに書くともっと良い景色が見れたのではないか、とも思うが

 

 

※追記

内田樹の「日本辺境論」に、日本語の特殊な点として「表意文字と表音文字を併用する言語であること」と記載がある

小学校で漢字を習うときにはその成り立ちも習うので、表意文字であることがなんとなくわかるのであるが、大人になるにつれそんなことを考えなくなってしまう

自分自身も内田樹の本を読んで、漢字が表意文字であったことに改めて驚いてしまった

で、本の中では日本語圏の難読症には「かなだけが読めない人」と「漢字だけが読めない人」という2つの症例があることが紹介されており、つまりそれぞれ認識している脳の部位で処理されていると結論づけられていた

こういったところも文章を書くにあたって影響しているのであろうか