物語と地名について
あら〜いいですね〜ジャケ買い
ここ1年くらい、「文学旅行」などという高尚チックで全然高尚ではない旅行なんかを何件か行った
これは、旅行先を決めたあとに、その土地に関する小説や紀行文を読んでから向かうというもの
直接的な映像作品や旅行雑誌を見るのと違い、文章オンリーの本というのはその土地や輪郭や風土のようなものがなんともあやふやに体に入ってくる
その分、事前に独自のイメージを持つこともできるし、現地での体験を通して事前イメージとの差異がわかりやすく浮かび上がる
二時間ほど歩いた頃から、あたりの風景は何だか異様に凄くなつて来た。凄愴とでもいふ感じである。それは、もはや、風景でなかつた。風景といふものは、永い年月、いろんな人から眺められ形容せられ、謂はば、人間の眼で舐められて軟化し、人間に飼はれてなついてしまつて、高さ三十五丈の華厳の滝にでも、やつぱり檻の中の猛獣のやうな、人くさい匂ひが幽かに感ぜられる。昔から絵にかかれ歌によまれ俳句に吟ぜられた名所難所には、すべて例外なく、人間の表情が発見せられるものだが、この本州北端の海岸は、てんで、風景にも何も、なつてやしない。点景人物の存在もゆるさない。強ひて、点景人物を置かうとすれば、白いアツシを着たアイヌの老人でも借りて来なければならない。
特に、有名な文学作品というのは土地の風土について著者の感性を通して凄まじい文体を持って発信していることがあり、青森旅行の際に初めてきちんと太宰治を読んだのだが、心底感動してしまった
そして上記に挙げた「満月と近鉄」
これは逆かもしれない
既知の土地に関する本
ただこれも「既知の脳内都市」を登場人物が歩き回るだけかというとそういうわけではなく、あくまでも小説のなかの街というのは実在するものであっても虚構であり、歪められている
なのでやっぱり新しい発見があり、感動がある
このように、小説や紀行文における地名というのものは、それが馴染みのある土地であろうがなかろうが、我々に対してなにかしらの意味を残してくれる
一方で難しいのが歌詞に登場する地名である
歌詞に土地の詳しい情報を溶け込ませることは、単純に歌の中という量的制限のために難しい
よって歌詞の中の地名に対する解釈は聞く人間の経験に大きく左右される
四国から出たことのない人間が「吉祥寺」という地名を耳にしたところで、「それは善通寺より大きいのですか?宗派は?」となる
その分、逆に既知の地名であれば急に親しみが湧くものであり、長野の友人が「これめっちゃいいんだよ」と”国道〇〇号線”(名前忘れた)という曲を聴かせてくれたことがあり、長野を走るその国道に自分はピンとこないものの、この道を日常的に利用する人間には様々な情景が浮かぶんだろうなと羨ましくなったことがある
したがって、刺さる人には刺さる「地名」というものは極力多くの人間に刺さってほしいと考えるのは当たり前のことで、ゆえに東京の地名ばっかり歌詞に出てくるのである
堪忍してほしい 吉祥寺って金峯山寺より歴史あるんですか?
物語を止める勇気
で、この本の評価であるが、非常に面白かった
ネタバレになるので深く書かないけれども、短編集でありながら全てが関連しており、最後に読者は自分の立ち位置がわからなくなってしまい混乱する
ここからはやっぱりちょっとネタバレになってしまう
この本は、最後にフィクションとノンフィクションの境目がわからなくなり、終了する
そして解説が挟まれる
普通、解説というものは本の内容についての感想、いわゆる書評というものをツラツラと書くものであるが、この本は違って、本が出版されるまでの物語がここに示されている
簡単にいうと、この本の著者はある女性に本を読んでもらうためにこの短編集を書き上げ、そしてそれを女性に渡す
その女性は西大寺のバーで働いており、たまたまそのバーを訪れたある作家が、その女性から短編集を見せてもらい、内容に驚愕して著者を探し出して出版にこぎつけるというものであった
最後の解説もどこまでがノンフィクションかわからないが、なんとも感動的な流れであり、こんな話があるのか・・・とふわふわした気持ちでページをめくっていた
すると、残すところあと10ページ程度となったところで突然
【対談】前野ひろみち(著者)×森見登美彦
というわけのわからないコーナーが始まり、
「いやーどうもどうも!」みたいな感じで著者が登場するのである
気を失いそうになった
(司会)いずれ開通するリニアについて、どう思われます?
(森見)うーん難しいですね。(中略)新幹線でさえ早すぎて怖いことがあるんで、たぶんリニアなんて怖くて乗れない。
(前野)私はもちろん歓迎ですよ。
なぜそんなことする!なぜあなたそんなことするあるか!!
こっちは現実と虚構のはざまでフワフワと心地よく漂ってたのに急に著者という「現実」が颯爽と登場してぺちゃくちゃと話し、ついには「超電導リニア」の話なんて聞かされる
読者の気持ちを考えていただきたい 厭な気分である
森見登美彦は「夜行」において虚構の余韻を非常にうまく操っていたので、こんなことに加担してしまっているのは少し残念な気持ちになった
ただ、いくら感想を調べてもこの対談パートにキレているのは自分だけなので、自分の感性がおかしいのかもしれない
対談を含めて1つの作品だとするような意見もいくつかあった
ただ、これで自分が曲がってはいけない 良くないものは良くないのである
本編がよかっただけになぜそんなことをするのかと悲しくなってしまった
クレヨンしんちゃんにカスカベボーイズという映画があり、劇中に登場する女の子が実はしんのすけが飼っている犬のシロが変身したものではないのかとの説があった
それを裏付けるようないろいろな考察もネット上で展開され、一部のファンの間では盛り上がりを見せていた
しかし監督の水島がブログでこれを真っ向から否定し、憶測を読んだ演出についても作中のミスだと明言したことがあり、悲しくなったことがある
地上波で鬼滅の刃を放送したとき、ある登場人物が死んだ直後、その人物が金属バットを振り回して高校野球の世界に転生しているアプリのCMが挟まれたことがあった
当時は腹を抱えて笑ったけれども、今となっては割と深刻な問題であるようにも考えられる
どう考えてもあんなことはやってはいけない
どうして余韻を捨ててしまうのだろうか
高校のとき属していた吹奏楽部にて、よく顧問が「余韻を残せ」と言っていた
それは音の最後の処理をプツっと終わらせるな と、この程度に当時の自分は理解していた
ただ、今になって思う
音の処理をフワリと投げるということは、自分の発した音に対してある程度の無責任さを持ち、その解釈をお客さんに委ねるということなのである
正直アマチュアレベルのコンマ数秒の音の世界でそこまで深く考える必要もないし、当時そういう考えを持っていたとしても音に劇的な違いなんて全く生まれなかったとも思う
でも高校を卒業して人生経験を積んで、改めて余韻というものを考え、そしてあのときの顧問の言葉について考えを巡らすことができた
余韻というのはある種の無責任さが必要なのかもしれない
それは発信する側に余裕がないとできないし、また受け取る側への信頼も必要である
ただ、受け取る側への信頼がないからといって、じゃああれこれと最後まで説明してやろう、ということをすると、受け取る側の感性は鈍っていく一方であり、悪循環である
せっかく自らの手で作り上げた物語
我が子のような存在であり、自分の手で守り育てていきたいのもわかる
ただ、本当に成長させたいのであれば親元から離し、自主性を持たせるべきなのかもしれない
自分も「余計な一言」を言って余韻を壊してしまうタイプなので、自戒も込めて