プロローグ
「ごん、お前だったのか。」
おれは部屋の真ん中に神々しく光るその生き物に近付く
それは一匹の狐であり、苦悶の表情で倒れたその腕には栗が抱かれていた
えらいことをしてしまった 婆さんの恨みがあったとはいえ、罪滅ぼしにおれの家に通っていた狐を撃ち殺してしまった
しかしふと考える、人間以外の生き物に後悔や贖罪の意識など存在し得るのであろうか
その疑問が脳をかすめた瞬間、目の前の景色が一変した
狐の姿は消え、薄暗い土壁の部屋に一筋の光が差し込む
その光を辿ると、壁には銃弾サイズの小さな穴がぽっかりと開いていた
おれは何を撃ったのだろうか 足元を見ると栗だけが残っている これは一体誰が持ち込んだのだろうか
おれは半年前に村のはずれのミドリ電化で購入していたビデオカメラを部屋にセットし、いつもどおり畑仕事へと出かける
仕事から帰るといつものように家の中には栗が置いてあり、おれは頬が緩んだ 早速部屋の奥にあるテレビにつなぎ、あぐらを組んでその映像にかじりついた
玄関の引き戸を締め切っているため当然なのだが、画面越しに見るおれの部屋はとても暗い
しかし何らかの生き物がいればうっすら見える程度にはところどころから光が差し込んでいる
この時代のビデオカメラには早回し機能などなく、ひたすら画面を見続けなければならず、いくら関心事とはいえ苦行と呼べるものであった
3時間が経ち、貧乏ゆすりが止まらなくなってきたころ、画面の向こうで不意に引き戸が開かれた
引き戸の前に現れたそれは全身が黄色く、胸に栗を抱え、器用に二足歩行をしていた
ついに来たかと息をついたのも束の間、おれは驚きのあまり声がつかえて出なかった
そこに映っていたのはまぎれもなくおれ自身であった 全身に稲穂を貼り付け金色に輝き、口をとんがらせたその顔は、自分が狐であることになんの疑いももたぬ野性的な表情をしていた
おれは手の震えが止まらなかった 映像を停止させたいがボタンすら押せそうにない
そして次第に熱を帯びる手のひらは、他人の体温を想起させる
ああ 婆さんはおれが手にかけたのだな
次第に冷静になったおれの手からは、あのときの婆さんみたいにすっと熱が抜けていった
「ごん、お前だったのか。」
画面の向こうで、ごんはぴょいと首をかしげた
人間にしかない感情
なにか失敗を起こしたとき、獣はそれを「経験」として捉え、今後の反省に活かす
もちろん人間もそれは同じであるが、人間はそれに加えて「後悔」や「恥」という感情が付いてくる
これが厄介であり、その失敗から得られる効用を大きく上回る損失を出すことがたびたびある
以下、人間特有の感情により、負の遺産しか残さなかった記憶を最悪の記憶と呼ぶことにする
そして最悪の記憶というものは脳の裏側に隠れ、執拗に生き続ける
加えて恐ろしいことに、それはある拍子に地表へと顔を出してしまうことがある
最悪の記憶を呼び出す引き金、それは日常のどこに潜んでいるかわからない
自分の場合もそれはほんの些細なもので、何をしようとしていたかは覚えてないけど、確か腕時計とシャツのボタンが触れ合って一瞬引っかかったというそれだけのものだった
しかし脳には電撃が走る
脳の裏でバクテリアのようなサイズで縮こまっていたその生き物は、急に肥大化し、宿主を脅かすまで出世する
そして宿主の五感を支配する 聴覚は蝉の鳴き声、嗅覚は土の臭いを捉え、非力そうな小僧がバットを構えているよくわからない像を目に映し出した
強制回顧
これは中3の夏の記憶らしい
周りを見渡すと野球少年がずらり、これは野球部として練習試合に来ている他校のグラウンドだろうか
とすれば、今から見せられる最悪の記憶は、野球というスポーツをしてきた中で最悪のプレーを見せられるのだとわかる 本当に勘弁してほしい
当時は基本的に外野を守っていたが、一時期だけなぜかファーストを守っていたことがあり、この映像の視点からも俺は今ファーストを守っているらしい
当然ながら目の前の打者はこちらへ打球を飛ばしてくるのだろう 他の場所へ打球を飛ばし、味方からの送球によって最悪のプレーが起こる可能性もあるが、それはそこまで醜いものにはならないはずである
やはり、打者が放つ直接の打球が自分を苦しめることになるのだろう
鋭い打撃音がした
非力な小僧というのは今の自分から見た視点で、実はガタイもよく、良いスイングをしていた
バットの芯で捉えたならば彼方へと飛んでいきそうなスイングであったが、少しボールの下を叩いたその打球は高く上空に打ち上がる
残念なことにどう考えても自分の方にその打球は向かってきている このボール1球が25歳の自分を苦しめるのだとつゆ知らず、中3の俺は素早く打球の落下地点まで走る
陰謀
中3の俺は、なんと一瞬にして落下地点に到達した
現在地から落下地点が離れていれば、目測を誤ってボールを頭に当てるとか、全く違うところに走ってしまうなど、最悪のプレーの候補が思いつく
しかし、もう俺は落下地点に到達しているのである なんと平凡な打球であろうか
ここから何が起これば最悪のプレーが発生するのか あとはグローブを出すだけでいいはず
グローブを出すだけ・・・
もし出すことができなかったら?
落下地点に着いたしグローブでも構えようかと上空へ掲げようとした左手に不意な抵抗感 左手が動かないのである
おそらくグローブから出ていたヒモのどれかがユニフォームと絡まってグローブがユニフォームから離れなくなったのだと思う
でもそんなことあり得る?引っかかったとしても力を入れて引っ張ればさすがにそこの絡まりは解けそうな気がするんやけど
このポーズのまま1塁付近で立ち尽くす人間 めちゃくちゃ面白い
これについては何か巨大な力による悪意か、奇跡的な融合が起こってしまったとしか考えられない
量子論どころか数学すら高2で放棄した人間やけども、トンネル効果というものがあり、壁に向かってヒトが無限に突撃していればすり抜けられる確率は理論上は0%じゃないことも知っている
ここでも何か量子論でしか説明のできないような現象が起こったのだろうか
とにかく、落下地点に着いた俺は、グローブを胸に畳んだままパニックになっていた
この「パニックになる感覚」というのは誰しもが味わったことがあるはず
その中でも時間的に制約のあるパニックはひときわ恐ろしく、バックトゥザフューチャーのラストの時計台のシーン、俺ならアクシデントが起きた時点でヒステリー気味に何かを叫ぶだけの気狂いと化し、高速運転中のマーティはどこへも転送できず交通事故により惨死する
あのシーンは、ドクの冷静さに劣等感を覚え、しんどくなってしまう
グローブの異常に気付いた時点で、ちょうど打球はヤマを迎えていた あとはただただ重力により加速度的に落下するのみである
この「加速」というのも恐ろしい
この間、1970年頃に書かれた“2001年の日本”の本を読んだ
そこには、人口爆発によりスラムと化した日本が描かれており、まだ1970年代には人口は増え続けるものだと思われていたことに少し感動すら覚える
その中の例えにこのようなものがあった
1分間で個体数が倍増するバクテリアを試験管の中で培養する
バクテリアによって試験管が満杯になるのが60分後だとすれば、試験管の半分までバクテリアが増えるのは何分後か
感覚で考えれば30分後くらい? だなんて思ってしまうが、バクテリアは”倍々に”増えていくのである
ここの答えは「59分後」 となる
そして、本には、ともすると今世界中の人口は59分目の状態にあるのかもしれないと書かれていた
つまり、倍々に増える、また加速度的に増えるものに対しては、状況の悪化に対する措置を早めに打たないと手がつけられないことになるというものであった
今落下中のボールもそうである
上空彼方に見えているあのボールは一瞬にして目の前まで接近するだろう
答えを出すのは今なのである 今が59分目なのである
こうして、①時間的制約によるパニックと②ボールの加速度 による二重苦により俺は完全に錯乱状態になっていた
こうなると人間は「反射」で物事を考えるしかなくなる下等生物へとなってしまう
反射による意味付けは後発的に行われる
耳元にカナブンが飛んできたとき、考えるよりも先に顔が勢いよく動くはずである
なぜ顔が揺れたのか?という疑問に対し、飛び去るカナブンを見て「あぁ、カナブンがいたからか」と、意味は後から付随されるのである
ここでは先に、結果として何が起こったのかを考える 理由はあくまで後付けであり、本当にそのときそんなことを考えていたという保証はない
痣
結果として、右乳首の下のあたりに痣ができた
さあなぜ彼の右乳首の下に痣ができたのか 考えてみようではないか
まず、痣ができた原因は、言うまでもなくボールが当たったことによるものである
ではなぜそこにボールが当たったのか 中3の俺の意図していたこととは何か
”ボールを体でキャッチしようとしていたのではないか”
これしか考えられない
グローブが使えず、グラウンド上において生産性0のゴミ人材となった俺は、せめてもの1%の望みに賭け、その尊い体を差し出した
これはもしかして、感動的な話ではないだろうか
そしてこの体を投げ売っての捕球方法、意外と画期的なので見てほしい
※本来左手はグローブの不具合により体にくっついているが、絵では面倒なのでそれを省略する
①少し反らした体にボールが落ちてくる
②胸のあたりでボールを受け止める
③受け止められたボールが体を転がる
④それを右手で掴み取る
⑤アウト成立 ヤッター*1
これは野球界の常識を覆す発想ではないだろうか
どう考えてもグローブよりも体の上半身の方が面積は大きいし、当てることは容易である
しかし所詮下等生物が瞬間的に出した答えであり、これを成立させるには
①体に当たる球の勢いを完全に殺す必要がある
②体に球を当てる面積を広くするため小田和正くらい反る必要がある
俺は小田和正ではなかったので球は右乳首の下で弾け、無情にもグラウンドに転がる
これをもって「打球を胸でトラップした野球選手」としての十字架を一生背負い込むことが確定した
しかもこれが実はファールゾーンの向こう側での出来事であったため、ファールと認定されたのである
ここまでの残酷な運命を俺に突きつけた打球を放った打者には、俺の生き恥そのものとして、ランナーになって残って欲しかった
ファールなんて何も起こっていないのと変わらない これも最初から最後まで俺の作り話な気がしてきた
仁鶴
日々平穏に暮らしていても、こうした記憶の引き金を引いてしまうもので、今回の話はまさに「玉に瑕」といったところですな*2
カンッ