子供の頃好きだった旅番組
昔から当然旅番組なんてものは無数に存在していたが、その中でも、場所的・時間的に連続性を持った番組というものは少なかった
この連続性とはどういうことか
旅番組は通常、放送ごとに観光地へと出向いて美味しいものを食べ名所を訪ねるもので、その次の放送は別の観光地が特集されることがほとんどである
旅先へロケする人間が毎週替わるような番組も多い
そんな中たまに、毎週同じ人間が登場し、「先週の続き」のような形で旅先から帰ることなくひたすらに旅を進めていくような番組がある
2008年から始まった「ロケみつ」の”ブログ旅”はその1つであった
これは稲垣早希という女芸人がエヴァのアスカのコスプレをして旅をするもので、逐次投稿するブログに対するコメント数をもとに、お金を獲得し、それを資金に各地のチェックポイントを周るというものであった
当然、彼女は他の仕事もあるので本当は大阪に何回も帰っているのだが、それが見えないようにうまいこと繋げられていたので、本当にずっと旅をしているような感覚を味わえていた
この番組の1番面白いところは、ブログのコメント数をお金に換える際に、サイコロを振り、その出目により倍率が変わるところにあった
最初は1が×0.1円、2〜5が×1円、6が×10円であったが、
確か途中から1が全額没収、2が×0.1円、3〜5が×1円、6が×10円とかいうとんでもない過酷ルールになった
こうなると1が出て全額没収になる方がどう考えても面白いと番組側が気付いてしまい、早希ちゃんは狂ったように1を出してしょっちゅう無一文になるようになる
特に祖谷渓で1を出して所持金0円になったときはさすがに笑ってしまった
祖谷渓で所持金0円は俺なら確実に発狂するし谷へ飛び込むかもしれない
頑張って欲しい反面、どう考えても無一文になった方が面白いというジレンマを抱えさせられた視聴者の中には、初めて自らの嗜虐性のようなものを感じた人もいたかもしれない
俺もその1人であった
その後も、ブログのコメント欄に「やらせじゃないか」みたいな声が溢れ出そうが、彼女はひたむきに1を出し続けた
もう次回予告の時点で金がない女の顔をしているので、絶対次週1を出すとわかってるのにいざ本当に出すとひっくり返って笑わされる
そして当時中学生で当然どこにも旅行へ行けなかった俺には、その番組こそが外の世界を見せてくれるレンズとなったのである
今思い出しても素晴らしい番組であったと思う
正月の体験
さて、今年の正月はコロナの感染拡大により本当になにもできなかった
本当になにもできないのに11連休ももらったので本当に本当になにをしようかと迷った
しかし結局家の周辺でできることなんて限られてるので、ぼーっとテレビを見ていたわけである
画面の向こうでは、お正月のお出かけ番組のような感じで、有吉とそのほかの芸人で旅行ロケをしていた
有吉一行が向かっていたのは長崎県の島原の方であり、城下町を散策したあと、一行はある駅へと向かうため、列車に乗り込んだ
それは「大三東駅(おおみさきえき)」という、日本で最も海に近いといわれる駅であり、俺がかねてから行きたいとずっと思っていた駅であった
このとき俺の中に迷いが生じた
おそらくこれは見ない方がいいのでは?
しかしなぜそんなことを思うのか、そのときは一瞬で答えを出すことができず、結局ズルズルと画面を見続けてしまっていた
一行は列車に揺られ、大三東駅へ
ちなみに写真ではこんな感じである
こんな最高な駅があるか!と思い、絶対いつか行くと心に決めていた
さて、一行はついに大三東駅へと着き、列車から降りる
より多くの情報を与えようと、広角カメラにより駅周辺の景色が映し出される
んん? 違和感がある
なんか
めちゃくちゃ家あるな??
そのカメラは、駅の海側とは反対方向の景色も捉えてしまっていた
そこには、普通の一軒家が立ち並んでいた どこにでもあるような街であった
あ、そんな感じなんや・・・ と落胆した
落胆をしたのである
なにに対して?住宅が立ち並んでいてはいけないのか?何の文句があるのか?
俺はおそらく、無意識にこの駅に対する幻想を過剰に膨らませていたのだと思う
こんな美しい景色が広がる駅は、きっと周りになにもないような場所にあり、そこを海風が心地よく通り抜けてゆく
そんな景色を勝手に思い浮かべていた
そして端的に言うと、がっかりしてしまった
当然、海側を見れば美しい景色が広がっており、なにひとつ期待値を下げてくる要素などない
しかし、不意に映った住宅地、そんなどうでも良いものが妙に引っかかってしまったのである
正月はなんせ暇だったので、なぜこんな気分になってしまったのかを、ぼーっと考えていた
おそらく4つの要因があると結論づけた
①観光地における情報の閾値
簡単にいうと「ネタバレ」である
俺は大三東駅に行こうとしていた
その周辺の街を観光しようとも、周辺のスポットを巡ろうとも思わず、漠然と「この駅に行きたい」との想いを抱いていた
つまり、目的地としては”大三東駅のみ”ということになる
そうなったとき、大三東駅に関して与えられた情報がある一定のラインを超えてしまったら、「知りすぎてしまった」と感じるのである
この情報量に関しては、訪れたいと思う場所が例えば街全体を指す場合や、どこかを起点に周辺を巡るような観光プランを考えていれば、情報への許容量も大きくなると考えられる(閾値が右へ移動する)
しかし、本当にある1地点「そこだけ」を目的にしていると、その閾値は左へとずれ、ささいな情報でネタバレ感覚に陥る可能性がある
もちろん、訪れたい対象地域やスポットがある場合には、事前の情報収集も必要となるため、ある程度は嫌でも情報が入ってくる
ただ、一定の情報は満足のいくプラン作りには欠かせないし、多くの人間がこの情報収集に用いるのは、知り合いからの直接の情報、SNSやネット記事、そして雑誌になると思う
そして、このような写真や文章での情報程度では閾値には届かないというのが自説である
それらはあくまで一部を切り取ったものであり、連続性もない
しかし、これが今回の番組のように、「映像」となると、吸収してしまう情報量が急に跳ね上がる感覚に陥る
俺もこのロケを5分程度見ただけで、もう大三東駅の全てを知ってしまったような気になった
列車を降りてから海が見えるホームに歩いていくまでの動線、そして周りの景色、過ぎ去る列車の姿、そういったものが全て連続的な情報として脳内に入ってきてしまい、閾値を完全に超えてしまった
これに関しては大三東駅の景色自体へのがっかりではなく、知りすぎてしまったことへのがっかりとなる
②勝手な事前期待との照合
顧客満足度は、事前期待と、実績評価との比較により決定されるといわれている
旅行において、自分が行きたいと思っている場所に対しては既になんらかの事前期待を持っていることが多く、今回も大三東駅に対してはしっかりと事前期待を持ってしまっていた
そして、今回番組でたまたま行きたい場所リストのうちの1つが取り上げられ、テレビの画面にでかでかと映し出された
このときなにが起こってしまったのか
”事前期待と実績評価との照合”を無意識にやってしまったのだと思う
この記事の上の方で、大三東駅に対して「思っていたのと違っていた」的なことを書いたのがその部分にあたる
観光行動は、景色を見る、温泉に入る、美味しいごはんを食べる等々、様々な行動の集合体であるが、この中で「自宅にいながら」事前期待と実績評価の照合が可能なのは「景色」などの視覚的要素となる
当然、実際現地に足を運んだわけではないので、視覚的要素も実績評価は不可能なのであるが、映像を通して得ることができる情報量が莫大であるゆえに、それが可能になったと錯覚する
そして「景色を売りにした」大三東駅は、事前期待との照合のターゲットとされ、勝手にがっかり認定されてしまったのである
”行きたいと思っていた観光地”の”視覚的情報”というものは、勝手な実績評価を生む可能性があるので注意しなければいけない
③他の要素で補完されなかった
本来、観光行動においては、ある1つの要素(景色や料理)が期待はずれだとしても、温泉や宿泊施設、また言語化できない空気感や接してくれる人が皆良い人だったとか、そういった他のあらゆる要素で補完されて、景色はいまいちだったけどトータルとしては満足!なんてこともよくある
しかし家の中にいる限り、そういった補完は当然行われず、他の要素により評価が覆されることもなかった
④知覚矯正が働かなかった
「知覚矯正」とは、簡単にいうと「正当化」である
このグラフは、企業の顧客満足に関するものであるが、観光行動になおすと、購買前期待を「事前期待」、購買後客観評価を「観光地での体験価値」、そして主観的評価が「最終的に自分が下した評価」となる
これを見ると、満足度を上げるためには事前期待値を下げればいいかというとそうではなくて、ある程度の事前期待は求められるということがわかる
そして、中央で3つの線が交わる点から右にかけて、購買前期待と購買後客観評価の2つの線に挟まれて伸びる主観的評価
この主観的評価の動きがミソとなる
購買前期待が購買後期待を上回ってしまっている状態、本来これは「期待はずれ」と称されるものであるが、人間の心理はそんな簡単なものではない
事前にこれだけ期待したのだから、素晴らしいものに決まっている という「主観的評価の引き上げ」が行われるのである
そして、単純な購買行動と違い、観光行動の場合、ここにもう1つの要素が加わるのではないかと思う
それは、その体験自体に払うコストに加え、既にお金や時間をかなりつぎ込んでいるということである
まずその観光地についてウン十分ウン時間と下調べをし、大阪からウン万円払い、ウン時間かけて移動し、やっとこさたどり着いた観光地
どんな寂れた場所でも素晴らしく思えてしまうものである
そういった行程を踏まず、実家で寝転びながらなんのコストも払わず擬似的に観光地を訪れただけなのだから、おそらく知覚矯正は一切働いていない
旅番組との向き合い方
結局、現地に出向かずに評価をするなんて出来っこない
しかし、上に書いたように、無意識的に評価されてしまうことがあるのもまた事実である
さてそうなると、世の中の旅番組を純粋に楽しめなくなってしまうのではないか
なぜ俺は昔、あんなにブログ旅を楽しく見ていたのか
それはおそらく、当時中学生の自分には絶対に行くことができない場所を旅してくれていたからであったと思う
”アフリカの子どもにカメラを向けると満面の笑みで応えてくれるのは、彼らはそのカメラが絶対手に入らないとわかっているからである”となにかの本に書いてあった
時間さえあれば国内ならどこでも行けるようになった今、ブログ旅を再び見返すと情報の閾値超えの恐怖や、無意識に行われる勝手な実績評価に悩まされるのかもしれない
しかし、旅番組がもはや旅行意欲を減衰させてしまう媒体かというと決してそんなことはない
事前イメージ・事前期待を持っていない地域に対しては、それが旅行の動機になり得ることは十分に考えられるし、また事前期待を持っていた地域についても、ほんの予習がてらに見てみると余計に行きたくなるに違いない
要は受け取り方の問題である
「現地に行かないとなにも評価はできない」との言葉を頭の片隅に置いておくだけで悪霊は退散できるのではないか
今回なぜか大三東駅のことをボロカスに書いてしまったけど、必ず数年のうちに訪れてきちんとそこで五感を働かせ、きちんと評価をするつもりである
以上、昔は気楽にニコニコと見ていた旅番組について、あれこれと考えてしまった出来事であった
旅番組については、気を張りながらも気楽に、矛盾してるけどもそういう見方をして楽しもうと思います