なおやんの 手記手記 しゅっき〜

なおやんの 手記手記 しゅっき~

痛みに耐えて よく頑張った

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28歳 元旦 能登半島地震

現在28歳

 

早生まれではないので1995年生まれということになる

年配の初対面の方に何年生まれかと尋ねられたとき、95年と伝えるとともに毎回「震災の年です」と付け加えてしまう

 

おそらくそうやって伝えることで毎回相手が「意味のある表情」をすることから、自然と情報として付け加えることになったのだと思う

そしてそのたびに、やはりあの阪神淡路大震災の記憶というのは深く人々に刻み込まれているのだと実感する

 

ちなみに今年ハタチになる子は、生れ年の2003年を「曙がボブサップに殺された年」と紐付けておくと我々おじさんには非常に通じやすくなるので是非覚えておいてほしい

 

 

そんな28歳の自分の正月は、いつもと同じように母方の実家である徳島に帰省していた

1月1日は昼に家族でご飯を食べに行き、食後は祖父母宅の座敷に布団を並べて家族全員で大昼寝をかましていた(前日に帰省していたことから移動疲れもあり)

座敷につけっぱなしにしてあったテレビが急に地震速報を流したのは16時頃だっただろうか

スマホには一切その類の速報は届いていなかったが、念のため「地震速報がきた」と家族全員を起こす

しかし、特になにも起こらなかったため(その後徳島県にも震度2が来ていたことを知るが、全く気付かなかった)、また家族全員が二度寝の体制に入ったときであった

 

 

信じがたい情報であった

震度7は確実にとんでもない被害が生じることは過去を思い返しても明らかであり、しかも震源地は海沿い

当然のごとく津波警報が出され、NHKのアナウンサーは緊迫した様子で、地震の情報よりなにより「とにかく逃げろ」と伝える

 

画面を食い入るように見つめていると、不意に津波警報の上に色の違う情報がポツリと追加される

アナウンサーの声は悲鳴に近かった 大津波警報であった

自分も全身から血の気が引いていったとともに、気付けば涙が止まらなくなっていた

津波の予想高さと地名がセットで画面に映し出される

能登半島は根っこの羽咋までしか行ったことがないが、富山や新潟の沿岸部は去年今年と訪れたばかりであったし、その他にも見知った地名が並ぶ

 

アラサーになり涙腺が緩くなったこともあると思うが、ポロポロと泣いてしまったのは確実に3.11の記憶が深い影を落としていたからだと思う

震災、特に津波によってこれから恐ろしいことが起こるという予感、そしてそれを切迫した様子で伝えるアナウンサーの声、悲しみというより恐怖によって泣かされたのかもしれない

 

 

2011年3月11日

 

当時中学3年生

その日は塾にいた 高校受験が迫っていた

時期的には春休みではないので、なぜ昼過ぎの時間に塾にいたのかはあまり覚えていない

受験前は短縮授業で早く帰らされていたのだろうか

 

普通に授業を受けていた教室に塾長が飛び込んできた「とんでもないことが起こった」と

実はその記憶は曖昧だったのだが、偶然最近会った同じ塾の友人と3.11のときの話をしていたら、上記のような感じだったらしい

ただ、授業が一旦中断されたのは覚えている

受験前のこの時期に授業を中断するのだからやはり相当な緊急事態だったのだろう

そして塾長か授業を担当していた先生からだったかは忘れたが「東北で大規模な地震が発生しました」と

 

周りには携帯を持っていた子もいたので、休み時間にそこからテレビを見せてもらうと、まさに津波が街に押し寄せる空撮映像が映し出されていた

戦慄するとともに、非常に不謹慎ながら1割くらいは興奮した様子でその画面を見ていたのだが、その後震災の状況を知るにつれ、あまりにも凄惨な被害に大きなショックを受けたことを覚えている

 

震災から1ヶ月ほど経てば、今度はより焦点を絞った物語が語られるようになり、家族全員を亡くした子どもや、目の前で親しい人が流されたといった個人のレベルの話は、より強烈で目を背けたくなるほどであった

 

この時期に中3であった人間は、中学から高校に変わる春休み、つまり部活も宿題もなくただ家にいることが多い時期にひたすらこういった映像に触れることとなり、精神が辛くなった人も多いのではないだろうか

 

その後、大学生また社会人になり自分でお金を稼げるようになると、実際に現地に行くことができた

 

 

大学生のときは三陸

そして今年は荒浜へ

 

 

荒浜小学校は当時のままの姿で保存されており、中に入ることもできる

2階部の手すりがぐにゃりと折れ曲がっているのが津波のエネルギーを如実に表している

 

ここで印象に残ったのは震災前の荒浜が再現された模型であった

 

 

その模型は、ただ建物や地形が再現されただけではなく、建物1つ1つに属性のピンが立っている

その属性も、公式の地図のような用途や名字を示したものではなく、「◯◯君の家」や「駄菓子屋」など、個人の物語に沿って書かれている

おそらく実際に小学生が震災前の記憶を頼りに作ったのだと思う

これが震災抜きに、ただ「自分の街の模型を作る」という企画であったらどれほど楽しい作業だろうかと想像する

 

さて、この模型は二重構造のようになっており、まず模型の方角は実際の方角とリンクしている

そして、模型が飾られてある部屋の奥には窓がある

 

この窓からの景色を見て絶望した

 

 

何もない 何も残っていない

わかるだろうか、上の写真の模型の「今ここ」となっている箇所が学校であり、その学校の前には集落が広がっている

模型と現実の方角はリンクしているため、この窓からも当然その集落は見えるべきなのである

ところが、窓からは青々とした野原が見えるのみ

 

模型の建物(その住人や来訪者)ひとつひとつに歴史があり、物語があり、それらがまた掛け合わさって無限の物語が生まれるはずであった

それらが全て津波により流されてしまった

 

震災の被害を個人レベルにまで落とし、そして窓からの風景により現実と対比させるというこの模型の見せ方はとても印象的であり、改めて震災における大きな被害というのは小さな被害の集合体であることを認識させられた

 

多感な時期に経験した3.11

その後に改めて認識した被害の悲惨さ

 

そういったことを踏まえ、津波の報道に絶望してしまったのだと思う

結果的に津波は3.11ほどの規模ではなく、被害は出ているので喜べないものの、あれほどの被害にならなかった点は不幸中の幸いであった

 

今回も正月早々に震災の報道によって精神がしんどくなった人間がいると思うし(自分もその一人)、その痛みから逃げることは正しいと思う

ただ、「痛みから逃げること」と「痛みを認識しようとしないこと」は全く別モノなので、この痛みにはきちんと向き合う必要があると思う

それは他人に強制することではないけれど、必ず多くの人は胸を痛めていると信じている

 

 

そんなことを考えているときにSNSで「すずめの戸締まり」がWOWOW?かなにかで震災直後に放送されたことを知る(以下文章ネタバレ含む)

これは完全に偶然のことなので、WOWOWは放送を辞めるべきであった!なんてそんなことは当然ながら全く思わない

 

この映画は去年見ており、そのときは普通に感動してしまったし、エンターテイメントとして楽しんでしまった

3.11の記憶も受け継がれるし、よいのではないかと

 

しかし、その後NHKクローズアップ現代で実際の被災者からの批判の声を聞くこととなった

そのときも自分の浅い理解力では「震災のエンタメ化」や、観たことでトラウマがフラッシュバックされてしまうことが批判されていると思っていた

ただ今回の能登地震を受け、あの映画における震災の描かれ方は危険なものではないかと改めて認識するに至った

去年に観た映画なのでそもそもストーリーがあやふやであり、根本から誤っているかもしれないのでそれは指摘してください

 

まず、震災は「巨大ミミズが引き起こすもの」という設定【①】

そしてそれは人間が鎮められるものであるという設定【②】

②は少し「ん?」となるけれども、ここまでは問題ないと思う

ただ、最後に物語は完全に3.11と結びついてしまう

それとなく伝えるとかではなく、3月11日という日付まで表される

これはやはり良くない 自分が被災者であれば許せない

 

引っかかるのは設定②である

地震は人が鎮められるだなんてあまりにも傲慢な設定ではないだろうか

作中では神戸や東京で起こるはずであった地震を主人公たちが命がけで守る

ならばなぜ東日本大震災は防げなかった?防ぐのに失敗した?

穿った見方をすれば、防ぐ価値もなかったのかと思われないだろうか

設定①と②のみであればそれはファンタジーの話なので、好きにしてくれと思うが、それを現実の震災と結びつけることは非常に危険であるように思う

 

 

震災の痛みを人が認識しようとするとき、ひとつは「帰属意識」というのがある

これは「同じ日本人だから」という帰属意識により、仲間の痛みを知ろうとするものである

そしてもうひとつ「自分にも起こり得たことだから」という偶然性もその要素ではないかと自分は考えている

この発想は震災に限らず全ての物事に当てはまる

例えば「今は自動車を利用するためバスには乗っていないが、明日にも自分は足が不自由になるかもしれないので、バスの運行に税金を投入するのは問題ない」という発想はこれに基づく

この考え方を当然のこととして持っている人もいれば、一方で「今の自分は自分の努力の結果であり、失敗者は努力不足」のような新自由主義的考えを持った人間もいる

 

すずめの戸締まりにおける震災は、震災における偶然性をあたかも必然的に「努力することで防げる」ように描いているように自分は感じた

 

今回の震災で自分が被災しなかったのは本当に偶然でしかない

1秒後にも南海トラフ地震が生じ、自身や親しい人間が死に至る可能性だってある

 

地震の翌日には被災地にオンラインで募金をしたが、その意味合いは被災地を助けたいという純粋な思いとともに、どこかには「自分たちが被災したときに助けてほしい」という、傲慢に見える考えも含まれていたのかもしれない

見返りを求めるその態度は傲慢にも見えるけれども、「不幸の偶然性」を踏まえての傲慢さなので、少しだけ許してほしい

 

 

もちろんオチのある文章ではないので締める言葉もないけれども、この元日に受けたショックと感想をきちんと言語化しておきたいと思って文章にした次第

 

安全な側の我々は何ができるのか

これからも向き合わなければならないと思う