飲みの席で上司に「いまチンパンジーみたいな恋をしてるんです」と語ると
「おっ じゃあおさるのジョージと一緒だな」と言われた
こちらから上司に言っといて意味不明ではあるが、なんでそんなことを言われなくてはならないのかと泣きそうになった
これが「ジョージのおさる」ならジョージ・オーウェルの動物農場に登場するサルのことかと思うが、動物農場におそらくサルは登場しなかったように記憶している
動物農場で1番アホなのはヒツジであるので、自分は「おさるのジョージであり、かつジョージのヒツジである」ということになる
羊たち
農場に多数いる動物の1つ。頭が悪く、アルファベットを1文字も覚えることができない。ナポレオン派の何者か(おそらくスクィーラー)によって、スノーボールの演説など、ナポレオンにとって都合の悪い主張がなされている時に「4本脚は尊い。2本足は悪い。」と連呼するように教えられる。
物語終盤ではスクィーラーによって「4本脚は尊いが、2本足はさらに尊い」と連呼するように変えられており、2本足で活動し始めた豚たちを肯定させる役目を担う。
そういったわけでしばらくバタバタしており記事を書けていなかったのだけれども、書けていない間にも記事になりそうな事象というのはいくつかあり、おおまかなアウトラインやキーワードをメモしていたこともある
例えば以下のメモ
これは広末涼子の「入ってくれてありがとう」の手紙にあまりにも衝撃を受けたという内容である
メモを公開している時点で本文を書く気はない
途中まで書いたけど全然面白くなりそうになかった
ざっと内容を書いてみる
・広末涼子が不倫相手の鳥羽氏へ宛てた交換日記の「入ってくれてありがとう」に衝撃を受けた
・「入る」と表現されるには、鳥羽氏を形成する全てがその瞬間は鳥羽氏の男根に集約されなければならず、鳥羽氏は一時的にではあるが珍棒そのものへと自身を昇華させた
・自分はブログでおそらく20万文字以上の文字を打ち込んでいるが、この一文に勝る文章を1度たりとも生み出していない
・なぜならあくまで所詮他人に公開しているような文章だからである
・恋愛というのは閉じた世界において内向きへの強烈なエネルギーを発するものであり、だからこんなえげつない文章を生み出すことができる
・だからそもそもこういった文章は絶対に公開されてはならない
・鳥貴族の釜飯がグツグツ煮立っているときにフタを開けると異様に怒る友人が何人かいたが、あれは釜飯の蒸気が逃げるのを嫌うのではなく、内向きのエネルギーを逃してしまうような私の人間としてのあり方そのものに警鈴を鳴らしてくれていたのではないか
・SNSに恋人の惚気を公開するのは一見蒸気を逃がすような行為に思えるが、顔に針を刺して美しくなるエステと同じで、少し逃がした蒸気のさらにその上から大きくフタをすることで内向きのエネルギーを強化する役目があるのかもしれない
・他人に恋愛相談をされて「さっさと別れなよ」と言ってしまうことがあるが、内向きのエネルギーを全く考慮していない発言だったと自省しなければならない
・なぜなら他人に見えている悩み事などほんの一部の小島で、その下には深く渦巻く瀬戸内のような海が広がっているからだ
・他人の恋愛への進言をそのまま真に受けて別れてしまう人はそもそもすっかり相手が好きではないか、渦の巻き方がわからない人であり、後者は死ぬまで瀬戸内海の景色を見ることができない
・別れた途端に「自分は馬鹿だった」と言う人がいるが、激流にのまれ為す術もなく回転していた自分こそ正常だったわけで、それが終わった途端大衆の論理に合流し、ショックドクトリンのごとくショックに乗じ「正しさ」をもって周囲に振る舞うのは悲しいことである
ネトフリで「あいの里」というおっさんとおばはんが欲情し合う最高の恋愛ドキュメンタリーを見ていたこともあり、愛の渦というものは尊いなあと思ったのと、NHKの100分de名著「ショック・ドクトリン」を見て、これも恋愛の終わりと似ているなあと思ったのと、その2点の気付きから構成されている
広末の記事も、構想期間は長かったので色々と思い浮かべていたのだけれど、いざ書き始めるともう全然面白くなくて消してしまった
要は、構想期間の長さと内容の面白さなんて全然関係ないということになる
ここでいう面白さはあくまで自分が考える面白さなので、他人から見たら死ぬほどスベっていることもある(スベっていることがほとんど)
ではどういったときに自分の考える面白い文章が書けるのかというと、これは「書きたい」という気分が湧くかどうか、となる
ここが非常に悩みどころとなっている
当然、モチベーションというものは作業をするにあたって大事なものではあるが、それでも事前に作成したアウトラインに沿って書いていればなんとかなりそうなものに思える
しかし実際に「書きたいとあまり思えない」気分のときにキーボードをカタカタと打ち込んでいると本当に顔をそむけたくなるどうしようもない文章が生まれてしまう
結局、題材ではなく書き方なのだなと思うのだが、文章をうまく書くコツがどうしてもわからない
自分でなんとなく「いけそう」という気分のときにはそれなりの文章が書けるし、もう書く前から「ダメそう」と思うと本当にゴミができあがる
「いけそう」の気分になる条件もよくわからない
ちなみに今日はその気分だから書いている 自分ではうまく書いていると思っている
そして「ダメそう」の日にどうやったらまともな文章を書けるのかがわからない
自分でも不思議なのだが、よい文章を書けるかどうかが”運”のようになっている
それでもいくつか「いけそう」の発動条件もわかっていて、これは直近に小説を読んでいるかどうかが大きいことがわかってきた
そしてこれはビジネス本や教養本ではなく、小説でなくてはならない
筒井康隆ばかり読んでいた時期は筒井康隆みたいな文章になっているし、村上春樹ばかり読んでいた時期はそういったふわふわした文章になっている
他の作家の本を読んだとしても、小説の文体というのは美しく、自分もなにかが書けそうな気分になる
要するに小説を読むことで瞬間的に文章力を上げ、その熱が冷めないうちに吐き出しているにすぎない
悲しいけれど現時点では恒常的な力ではないということになる
今年の頭にスキーで野沢温泉へ行ったとき、飯山駅からのバスでたまたま隣に座ったお姉さんとLINEを交換し、しばらくやり取りを続けていたことがあった
その人は20代〜30代くらいに見えたが、おじさん構文を使ってくる希少種で、その文体の独自性に惹かれるようになった
おじさん構文もおじさんが使うから最悪なだけで、これを若い女性が使うと一気に価値が上がる
昔、若い女性のあまりいない業界に綺麗な女性が登場するとすぐに「美人すぎる◯◯」と持ち上げていた気色の悪い時期があったなと思い出す
おじさん構文の特徴はとにかく絵文字が多いことである
その女性も常にヤケクソかのごとく絵文字を連発していた
文字よりも絵文字のほうが多かったこともある
いま読んでいる「言語の本質」という本では、絵文字が「視覚的アイコン」にあるのに対し、オノマトペは「聴覚的アイコン」であり、「ワンワン」といった音声情報は、イヌの絵文字の一部しか写し取ることができないと書かれてあった
ハイイロエボシドリというこの世で1番愛らしい鳥がいるのであるが、「ハイイロエボシドリ」という文字や、その鳴き声のモノマネによってハイイロエボシドリの姿をそのまま相手に伝えることは不可能である
しかし、ハイイロエボシドリの姿をした絵文字を貼り付ければ、文面においてその姿を一瞬で相手に認識させることができる
もはや人類に文章など必要なく、絵文字のみの情報交換の方が優れているのではないかと、おじさん構文の女性とのLINEからそんなことすら考えるようになった
人類の共通言語として今からでも絵文字のみの新言語を確立させるべきであるし(※)、そのような言語であれば文章をうまく書けないなんて悩みから解放されるのかもしれない
※アイヌ民族のように話し言葉のみの言語は存在するが、書き言葉のみの言語は存在する?
はたまた、「あなたの人生の物語」に登場するヘプタポッドBのように、1文字であらゆる事象を相手に伝えるような「表義文字」のような言語が登場するのだろうか
ちなみに「あなたの人生の物語」は最近読み返してやっぱりあまりにも面白かったので2人くらいに貸した
この言語の特性を読み解いたときの鳥肌が立つような感覚は未だに忘れられないし、話自体の構成もすごく作り込まれていて面白い
ただ、新たな言語の創造に挑戦するか、日本語に苦しむかを迫られると、自分は怠惰な人間なので日本語の渦に死ぬまでもがくのだと思います
この渦を乗りこなし、私は村上海賊になれるのだろうか