なおやんの 手記手記 しゅっき〜

なおやんの 手記手記 しゅっき~

痛みに耐えて よく頑張った

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好奇心について

 

龍飛に着いたッピ

 

よいダジャレだと思うけれど、語尾に「ピ」が着くだけで納沙布岬に着いたような感覚になる

ロシア海軍の気配を感じる

しかし、日露戦争中の日本海海戦では結局バルチック艦隊がこの龍飛岬付近を通ることはなかった

 

 

龍飛岬といえば太宰治津軽」における、龍飛岬についての記述がすごく印象的であった

今まで読んだ紀行文の中では抜群に美しく、心を揺さぶられたのを記憶している

 

ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えてゐるのである。ここは、本州の袋小路だ。読者も銘肌せよ。諸君が北に向つて歩いてゐる時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである。

太宰治津軽」P50

 

 

龍飛岬には太宰の記念碑もある

この文章の感動はなんなのだろうかと龍飛岬にて改めて考える

思うにやはり、「読者も銘肌せよ」という呼びかけではないかと思う

これにより読者は強制的に太宰の見た津軽半島まで送還され、北へ北へと、左右に狭まりゆく海岸線を望みながら歩く羽目になり、最果ての景色をまざまざと連想することになる

これは紀行文だから当然のこととして、太宰は小説においても読者に呼びかけるような表現をすることがある

 

津軽に生れ育ったこと、生家が大地主であったこと、六男坊として育ったこと、この三つが太宰治の生涯と文学を理解する上に、重要であると考える。津軽は本州の最北端で、昔からえぞのくになどと呼ばれ、中央からは文化果つる地とみなされ、方言も標準語と大きく違っている。飢渇と呼ばれる凶作にしばしば見舞われる雪深い酷寒の地であり生活は厳しいが、それだけにロシアの農民をおもわせるような忍耐強さ、強烈なヴァイタリティ、骨太い反骨性、生活からにじみ出た笑い、ユーモアがある。いわゆるわびやさびなどの日本的性格とは違う、縄文時代から続く(太宰の故郷の近くに縄文晩期の東日本文化圏の中心であった精密で重厚な土器、土偶を産する亀ヶ岡遺蹟がある)深層的日本の呪術的習俗や雰囲気が濃密にのとっていて、オシラさまやイタコの信仰から、民謡、民話、そしてネブタ絵、凧絵さらには棟方志功の版画に通ずる原色のヴァイタリティがある。そして一面意外に明るい開放性やハイカラ性もある。長い冬の夜、炉辺で語る津軽ごたくの身ぶり手ぶりで相手に語りかける話体や笑い、ユーモアは太宰文学の大きな特徴になっている(太宰治の文学は、どんな小説でも君よ、あなたよ、読者よと直接作者が呼びかけてくる潜在的二人称の文体で書かれている。この文体に接すると読者は、まるで自分ひとりに話しかけられているような心の秘密を打明けられているような気持になり、太宰に特別の親近感をおぼえる。そして太宰治は自分と同じだ、自分だけが太宰の真の理解者だという同志感を持つ。この独特な話体も津軽ごたくの影響があるとぼくは考える)

奥野健男太宰治 人と文学」

 

まだまだ太宰治にわかなので「潜在的二人称」と言われても全然ピンと来ないのであるが、青森旅行に行ったばかりの自分にとって、太宰治を取り巻く風土的バックグラウンドが記述された奥野氏の文章はなんだか嬉しくなってしまうものであった

(奥野氏の文章は、太宰治「斜陽」の本編あとに挟まれていた)

 


そんな龍飛岬には、爆音で津軽海峡冬景色を流すことができるボタンがある

嘘みたいな巨大な赤ボタンを押すと、信じがたい音量でイントロが流れ出す

そしてイントロが終わるといきなり「ごらんあれが龍飛岬 北のはずれと」と2番の歌詞からスタートする

ここは龍飛岬なのだから当然である

上野行きの夜行列車に乗り込むシーンはカットされ、いきなり青函連絡船の船上なのでなかなか気持ちが追いつかない

 

※一緒に龍飛に行った友人と津軽海峡冬景色替え歌選手権を旅行中ずっとしており、優勝は「ごらんあれが勃起乳首 期待はずれの」でした

 

この津軽海峡冬景色、なぜか坂本冬美の曲だと思いこんでおり、あまりに爆音で流れて面白いので「冬美爆音」の文字とともにSNSにアップしまくっていたら、友人より「石川さゆりやで」とのコメントが来てゾッとした

こういうときに指摘してくれる友人というのは本当に大事にしなくてはいけないと思う

間違ってることは間違ってると 指摘してほしい

危うく津軽海峡冬景色を「坂本姓」の創作物として取り込み、より一層の「サカモティズム(坂本姓という共同体の価値を至上のものとして重視,尊重,宣伝する意識・運動)」に傾倒するところであった

 

この間も「こんなことがあってサァ〜」てな感じで恋バナをツレの会に持ち込んだら5人くらいに「お前が悪い」と袋たたきにあった

普段は意見がわかれるような人々なのにその日だけは一致団結集中砲火

右からも左からも叩かれる田原総一朗みたいで自分を客観的に見て哀れすぎて泣きそうになってしまった

でもボコボコにしてくれる友人というのはめちゃくちゃありがたい

これも叩いてくれないと自分の誤りに気がつかないところであった

 

出る杭は打たれるというけれども、自分の信用している人間の前にはあえて直立不動で出て行き、ボコボコに打ってもらい矯正される作業も必要ではないかと思う

 

もちろん、以下の記事で書いたように恋バナはあまり公衆の面前で大っぴらにすることではないのでここには書かないのだけれど、その議論に関連したことを少し

 

buffaloes24.hatenablog.com

 

 

自分は明らかに恵まれた環境に生まれた

好奇心旺盛で明るい両親のもとで育ち、友人に恵まれ、先輩後輩に恵まれ、職場に恵まれ、周囲のドライバーが危険運転で自分を轢き殺すこともなく、とにかくたまたま恵まれた環境で育ってきた

 

自分は様々なことにわりかし好奇心が湧くけれども、これは周りの環境がそうさせたのであって、自分が特段努力したとかではないと思っている

つまり、当然ながら善し悪しの問題ではない

 

上記を踏まえ、自分は人が「だいたいのことに興味を持つ」と思ってしまっている節がある

 

例えばプロ野球観戦という趣味

オリックスバファローズというチームを応援しています 」と伝えたところで「どこのチーム?」となるだけである

なので、野球観戦というものを様々な要素に分解してみる

 

オリックスは大阪のチームであるが、関西のマスメディアはなぜか兵庫の阪神ばかりを取り上げる」という点を切り取れば、メディアや報道に興味のある人間は食いつくかもしれない

「電鉄の歴史」と絡めれば「鉄道好き」に

「球場グルメ」は「グルメ通」に

「打率や防御率などのデータ」は「数学好き」に

「選手の顔面」は「イケメン好き」に

 

といった風に、要素を分解することで様々な興味へとつなげることができる

 

または一般化・抽象化するという手もある

※「分解」との違いがわかりにくいが、「でかい」「カッコいい」みたいに形容詞で表されるイメージ?

 

縄文土器のことは詳しく知らないが、なんか形がカッコいいし神秘的だから好き」という今の自分はまさに縄文土器を一般化しており、今ある薄く浅い知識でも縄文土器にアクセスすることができる

 

この「分解」と「一般化」を、動詞として「刻む」「擦る」としてみる

※擦るというのは擦ることで対象をぼやかす=一般化・抽象化するイメージ

 

【刻んだり擦ったりすれば、どんな物事でも自分の食べれる形とすることができるので、だいたいの物事は何らかの形で誰しも興味を持つことができるだろう】

このような考えを自分は持っていた

しかしそんなことは完全に誤りであるし、自分も「本当に興味がないし近付きたくもないもの」は多数存在するので、これは一方通行なものの見方であったなと反省をしている

 

冒頭の、友人たちにボコボコにされた話は以下のような内容である

 

「自分の好きなものを相手に『刻んだり』『擦ったり』しながら説明したけれども、あまりにも伝わらないという経験を何度も繰り返したので自分は絶望をした」

 

そりゃ友人たちにボコボコにされるわなといった、驕り満載の思考であった

 

ただ、好奇心の強弱というものは当然ながらあると思う

好奇心が弱い人には、どうしても「伝わるイメージ」にするために、対象物を大きく刻んだり擦ったりすることになる

 


そうなるともはや口に含むこともできない大きさになってしまうのであって、美味しく味わうこともできない

ある程度小さな塊、つまり個人独自の興味にそこそこ強いつながりを持つ「自分の形」にしないと、なかなか食べたいと思う段階にすら至らないのではないか

そして対象物を美味しく食べれたというきっかけがないと、なかなか対象物に接近することができないのではないか

 

そうして、好奇心が強い人間は、より様々なことに興味が湧くシナジー効果が発揮される一方で、逆はなかなか興味の幅が広がらないということになる

もちろん何度でもいうけれども善し悪しの問題ではないので、「本人が」生きる上では全く問題のないことである

ただ、こういう傾向があるのではないか、というだけの話

 

善し悪しではないということを踏まえた上で、自分は好奇心をある程度強く持って生きれたら、とは思っている

上で書いた理論でいくと、何でもかんでも興味を持とうと思うと、対象物を小さくすることが難しく、逆に興味の幅があまり広がらないということになる

 

だから、興味を持ったものはある程度深く勉強してみよう、というのは最近のテーマである