近所の蔦屋書店に行ったら奥田英朗の本が置いてあった
インザプール、空中ブランコ、町長選挙の3作はどれも中学生のときに読んだ記憶がある
他にも色々な本を読んだはずだと思って調べたら、記憶違いで、全て荻原浩の本だった
これは奥田英朗の本に出会うもっと前
小学校2年生くらいの時の話
隣の家のおばちゃんが犬を飼い始めた
記憶にある時点でもうだいぶ大きな犬だったので、子犬時代は家の中で飼っていたのかもしれない
とにかく、隣の家のおばちゃんが犬を飼い始めたのである
当時犬を飼いたいと思っていた自分は、隣家が犬を飼い始めたというニュースに心躍り、あたかも自分の家に犬がやってきたかのような錯覚に陥るほどであった
さっそくおばちゃんのところへ行き、犬を見せてもらう(この時点でだいぶデカかった)
「犬なんていうんですか」
さすがに自分の所有物ではないことはわかっており、おばちゃんが名付けた名前で呼ぶしかないため、当然最初に聞いておくべき質問であった
「ぼくちゃん」
一瞬耳を疑った
「ぼくちゃん?」
「ぼくちゃん。男の子やから。」
ほんの3メートルほど隣の家である
少しX座標(場所軸)とY座標(時間軸)がズレていれば、自分もこのおばちゃんの息子として生まれ、「男根太郎」とか名付けられていたかもしれない
名前のせいでクラスメイトに死ぬほど虐められている俺は母親になぜこんな名前をつけたのか問いただす
「男の子やから」
それ以上でも 以下でもない
「ぼくちゃんっていうんですか」
ぼくちゃんはフワフワとした白と茶色の混ざった雑種で、シッポをふりふりしていた
小学校2年生の自分はふと思いつく
「女の子やったら、わたしちゃん やったんですか」
目の前のおばちゃんは犬の名前をつける際、その犬の雌雄が対応する、人間の男女の一人称を引用するという規則を適用していると考えられ、もし犬がメスであれば、それに対応する「女」の一人称「わたし」が名付けられる、小学校2年生の自分はそのように推論したのである
「それはないわ」
半笑いでおばちゃんが返答した瞬間に俺の左脳は弾け飛んだ
自分の中の論理的思考というものが壊滅した瞬間である
以降、右脳のみで生きてきたせいで、目尻のシワでしか相手にモノを伝えることができず、右脳のみ重たいため思想まで右に偏り、今必死に内田樹の本などを読んで思想を真ん中か左寄りに持っていこうとしている
一応仕事として大きな括りではコンサルをしているものの、日本人をMECEで分けろと言われても「天皇」とそれ以外としか分け方がわからない
ここで「そうね、メスならわたしちゃんだったね」と言ってくれれば、自分の可能性はどれほど開けたことだろうかと思う
ただ、この事件を背負い込んだ今の自分の人生に不満はなく、素晴らしい人間に出会えてきたので、人生に必要な銃撃であったように思う
また、同じくらいの時期の話
家の目の前、今度は道を挟んで10メートル位の距離に駄菓子屋があった
小学生にとって駄菓子屋というのは最高のたまり場であるので、自分の家に友達を招くときはほぼ毎回そこでお菓子を買って店の前でたむろするか、自分の家で友達と菓子パーティーをしていた
今でこそ駄菓子は好き勝手買うことができるが、当時は1日100円くらいの範囲内でしかお菓子を買うことができず、限られた予算の中で目一杯お菓子を楽しむために「アタリ付き」のお菓子をよく買っていた
今はどうかわからないけれども、自分が小学生のときのアタリ付き駄菓子は、よく当たっていた
その中でもひときわ当たり率が高かったのが「ヤッターめん」であった
1つ10円で売られているベビースターのようなお菓子なのだが、とにかくよく当たる
そして、上の画像の蓋の裏にも「100円」とかいうとんでもない数字が見えているが、10円〜100円の幅で当たりがあった
10円のお菓子で30円とか50円、たまに100円なんていう当たりがそこそこの頻度で出るので、10個くらいまとめ買いすればそのうち3つくらい当たり、換えにいったヤッターめんがまた当たり・・・みたいな現象が起こり、いつまでも楽しめるのであった
当然これが気に食わないのが駄菓子屋の店主のオッサンで、当たりを換えにいくたびあからさまに不愉快な顔をしていた
駄菓子屋は店の奥がそのまま住居で、いつも店の奥で「日常」を過ごしているオッサンをいちいち呼び出してお菓子を買う必要があり、正当な買い物をする際にすら少し面倒な顔をして出てくるのに、ヤッターめんの当たりを換えにいくときは
・店に一切お金が落ちない
・商品だけ持って行かれる
・日常を邪魔される
の三重苦で殺人鬼のような顔をして店の奥から出てくる
平穏な田舎で育った小学生にとって、テキサスチェーンソーのような足取りで殺気を含んだ目を向けてくるそのオッサンはあまりに刺激的で、「ヤッターめん遊び」は、途中からオッサンに会いに行く肝試しのような様相すら含んできた
そのうち、オッサンも我慢の限界が来たのか「当たり分の値段で他のお菓子持っていけ」と言うようになる
これは奈良県のほんの小さな町の小さな集落のある駄菓子屋でのみ実現した「ヤッターめん本位制」であり、革命が起きようとしていた
しかし自分たちには革命など関係なく、ただテキサスチェーンソーに会いたいという気持ちしかなかったため、頑なに断り、ヤッターめんによる嫌がらせを続けてしまった
ある日、駄菓子屋へ行くと、全てが夢であったかのように、ヤッターめんが消滅していた
あんな不愉快なお菓子を置いておくわけにはいかなくなったのであろう
小学生の自分たちは、土俵の上に這い上がり、群れになり、大人と「ヤッターめん戦争」に打ち込んでいたのであった
しかしヤッターめんは一瞬にして消滅した
所詮子どもが両手を振り回してぶつかっていったところで、大人はコマツ普通型ブルドーザー「D155AX-8」に颯爽と乗り込み、土俵そのものを1分で平地にすることができる
大人になるということは、コマツの重機に乗ることができるということなのだ
早く大人になりたい、と純粋に思った
そんな自分の少年時代に彩りを与えてくださった2人が続けて亡くなったということは、ゴールデンウィークに帰省した際にさらっと母親に伝えられた
すごく衝撃を受けたし、悲しかった
色んなお礼も言えていない
でも、もし生きていたとしてバッタリ出会ったとき、昔の話を語り、あのときは楽しかったですありがとうございました、なんてなかなか言えるものではない
こういった想いの多くは、伝えることがなく消えていくものなのだろうなと思う
だから、大事な人が亡くなる前にきちんと気持ちを伝えましょう、と、このようなありふれた答えに落ち着きそうになるが、そうではない
それはやっぱり伝えることが難しいものだと思う
そういった気持ちは他人から伝えられることがないので、他人には適当に接し続けて人生を全うすればよいかというともちろんそんなことではなく、伝えられることがないとわかっていても、おそらくこのように思ってくれているのではないか、と希望が持てるように、自分なりに正しく生きるしかないのではないかと思う
冒頭の奥田英朗の「町長選挙」には、人気球団のオーナー「ナベマン」(明らかに巨人のナベツネのことである)が登場する
高齢のため死の恐怖に悩むナベマンは、伊良部医師のアドバイスにより「生前葬」を行うことにする、といったストーリーであったように思う
その生前葬では、日頃ナベマンと親交のある人、逆に対立関係にある人、様々な人が一同に介し、ナベマンへの想いをスピーチでぶつけるのであった
それを聞いたナベマンは穏やかな気持ちになり、いつ死んでも良いと思うようになる
本当に自分への言葉が欲しいのであれば、生前葬をするしかないのかもしれない
結婚式よりも生前葬の方がどう考えても面白い
受付に向かうと「本日はご愁傷さまです」と頭を下げられ、「屍人の死に装束の色当てクイズがありますので、あちらのカウンターより色付きのサイリウムをお取りください」と案内される
式場への登場は、フォークリフトのフォーク部に棺桶を載せ、雑に床へ叩きつけて欲しい
「どうしても戒名を書いてほしい人がいます」と、7歳くらいの孫を呼び出し、
卒塔婆に「死ンデレラ」と書いて欲しい
もちろん生前葬なんて夢物語で、することなんてできない
人に愛されていると、確かな実感を持ちつつ、究極的な孤独感を抱きながら生きるしかないのである
だから自分を救うため、頑張って人道的に生きようと思う