なおやんの 手記手記 しゅっき〜

なおやんの 手記手記 しゅっき~

痛みに耐えて よく頑張った

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京都の美術館を巡って色々と考えたこと

発掘

ときどき京阪神圏の美術館や博物館のイベント情報をチェックし、琴線に触れるような展示をやってないか調べる癖がある

 

そのときも何気なしに調べると、京セラ美術館で「モダン建築の京都」が

 

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そのすぐ隣の京都国立近代美術館で「発見された日本の風景 美しかりし明治への旅」が開催されていた

 

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興味のある企画が同じ時期に近接した場所で開かれることなんてあまりないので、出かけることに

 

建築物への興味

旅行芸人のくせにもともと建築に興味があったわけではなかった

そんな自分が建築物に少し興味を持ち始めるきっかけは、極めて不純なものであった

 

それは、昨年行ったある旅行において友人がつぶやいた一言である

 

「この建築物って丹下健三っぽいな?」

 

実際に調べたら当たっていた

俺は感動してしまった

そして、めちゃくちゃカッコいいと思った

 

そんなことから不意に建築物というものがくっきりと視界に入るようになってきた

詳しい知識は皆無なので、ただなんとなく建物の持つ「存在感」みたいなものがあるかどうか、みたいな主観的な評価になってしまうんだけれども、それでも街歩きが非常に楽しくなった感覚がある

 

”旅行をする”という言葉はよく使うが、当然その言葉の中には様々な行動が含まれていて、その中の「旅行の目的となる行為」が多ければ多いほど旅行も楽しくなるし人生も楽しくなるのではないかと改めて思わされた

 

 

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あなたの旅行はどれくらい分けれますか〜?教えて〜

 

 

劣悪なイヤホンから少し良いイヤホンに替えたとき、今まで聞こえなかった音が聞こえる感覚

「そこにファゴットいたん!?」みたいな感覚

新しいことに興味を持つというのはそういうことじゃないかなと思うのです

ずっと存在していたのに視界に見えていなかったものが急に目に入るようになってくる

既にそれは存在しているので、気付くのは早ければ早い方が良いのです

 

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京セラ美術館へ到着するまでの間、既に視界には京都市内のモダン建築が飛び込んでくる

大学時代からずっとあった建物なのに、当たり前の風景と捉えていて改めてその姿を認識したことはなかった

のちのモダン建築展にて知るのだが、上の写真の「東華菜館」は同志社カレッジソングを作詞したヴォーリズが建築したんやって へえ〜

 

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京セラ美術館へ

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おっなんと素晴らしいモダン建築!

 

この前長崎県美術館隈研吾展を見たときも、美術館自体が既に隈研吾建築であったので、下のような流れを堪能することができた

 

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最初にいきなり”本物”を見せられて、「なんかすごそうだけれどもなにがすごいのかわからない、、、」となり、その後きちんと隈研吾建築の理念や意図みたいなものを勉強して、最後に”本物”でおさらいできるのである

これ以上効果的な勉強法はあるだろうか なんと素晴らしい

 

今回もモダン建築の中でモダン建築を勉強できるのであった

京セラ美術館というのは初めて訪れたけれども外観も内装も超オシャレ

ちなみに展示を見終えたあとも感想は「超オシャレ」のままだったので、建築については難しくてさっぱり理解できていないことが読み取れる

まあでも自分の中での建築物への興味というのはまだまだモヤっとしたものでいいんじゃないかなと

 

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ただ建築の技術的なことはチンプンカンプンだったけれども、展示からの気付きみたいなものはあったので以下に2つ

 

過去への色付け

展示の中では、同志社大学今出川キャンパスの建物も結構紹介されてて、礼拝堂や神学館なんかがキリスト系の建築方法?である「ミッション建築」の代表例として挙げられていた

 

当時はもちろんそんな価値に全然気付いていなかったし、礼拝堂の中で楽器の練習とかしてたくらい

じゃあ当時の自分に対して「お前は今いる場所の価値にも気付かず、非常にもったいないことをしている」と伝えたいかというと全くそういったことではない

 

”大学時代を過ごしていた思い出の場所が、実は非常に価値のあるものだった”

それは「過去への色付け」みたいなものであり、過去の行動に対して新たな評価軸で捉え直して、過去の自分の価値を高めてあげる

結果として今の自分も少し偉くなったような気分になる

それだけでいいんじゃないかなと

 

そういった考え方をすると、なにかを学ぶということは今の自分・未来の自分の価値を高めることはもちろんのこと、過去を生きた自分の評価を上げることにもなるんじゃないかななんて思うのです

 

多様性について

京都のモダン建築は、色んな国の文化が融合していて、西欧風の建物に唐突なインド装飾なんかがされていて非常に面白い

またそれが、京都という古都において成立しているというのが興味深いなと思わされる

こういった建築については、近年の言い方でいえばダイバーシティ 多様性 みたいな言葉が当てはめられるのかもしれないし、言葉は間違っていないと思う

 

ただ、近年の過激な「多様性」という言葉は、京都でいうと

「町屋が立ち並ぶ地域は時代遅れ!管理も大変だし防火面でも不安!最新式新興住宅地にすべき!!」

みたいな主張になっている気がする

 

京都におけるモダン建築というのは、きちんと町家群や寺社仏閣、祭事や文化を残し続けてきたからこそ価値があるのであって、それらが日本文化をぶっ潰したのちに建てられたものであったならば、そこになんの精神性も生まれないはずである

 

最近、神戸大学の某教授のセミナーを聞くことが多いのだが、そこでは

「最近の人間は目に見えるものだけに価値を置いている。」

「目に見えないものは価値がない、などと思ってはいけない。そもそも目に見えるものであっても、自分たちはそれらの価値がわかるなんて思いすぎてはいけない。」

 

と前置きした上で

「価値のわからないものは、とりあえず残すという発想も大事。」とおっしゃっていた

 

 

自分は「断捨離」という言葉があまり好きではなくて、その原因がよくわからずモヤモヤしていたのだが、おそらくその教授のおっしゃった、物事の価値を自分はわかっているという姿勢が嫌だったのだと思う

もちろん断捨離というのは自分自身で行うものなので、その価値を見誤ってゴミ箱へ捨てて困るのは自分自身なのであるが、断捨離の思想そのものを他のことへ持ち込んでこられると厄介だなぁと思ってしまう

 

 

 

京都国立近代美術館

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さて今度は京セラ美術館のすぐ向かいの京都国立近代美術館

ここでは「日本の風景」展がやっていた

 

普通こういうのって写真で見たほうがリアルで面白いのかもしれないけれども、あえて絵画から日本の風景を見てみるというのはこれはこれで興味深いのかなと思って足を運んでみた

 

絵のセンスは壊滅的なので長々と感想は書けないけれども、1点だけ

 

フィクションとリアリティー

展示の中で1番印象的だった絵は「鎌倉大仏」の絵であった

 

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エーリヒ・キプス「鎌倉大仏

 

まず衝撃的なのがこの大仏のデカさ

恥ずかしながら鎌倉大仏というのを生で見たことがないので正確な大きさはわからないが、調べると台座を含め13mと出てきた

ただこの絵を見ると明らかにそれより大きく見えるのだが、これを思っているのは自分だけなのだろうか?

下手したら30〜40mくらいあるように見えるのである

少し誇張されているのでは?との疑念が湧く

 

 

ここで、この間ふと読んだ別所隆弘氏の文章(正確には話し言葉)を思い出す

 

別所さんとは、同志社の英語の教授もされており、自分も担当になったことがあったけれども、映画を題材にしてアメリカ文化を読み解いていくというなかなかおもしろい講義であった

そしてこの別所さん、プロのカメラマンでもあり、カメラを通した世間への洞察というか考察というか、そういったものが非常に鋭くて、いつも感心しながらnoteの文章を読ませてもらってる

 

そんな別所さんが都市環境デザインセミナーに登壇されたときの議事録みたなものがあって、何気なしにネットでそれを読んでいたときに、興味深い記述があった

 

以下、そのまま貼り付けてみる

 

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自分はアホなので、上の引用文そのものがよくわからなかった

水の上を渡ってくるのにそれだけ暇がかかる・・・とは???

 

しかし読み進めていくと別所さんの意図するところがわかってくる

 

以下は文字での引用

 

 

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 これ当時、非常に面白いなと思ったんですね。
 なぜかというと、マーク・トウェインっていうのは、リアリズムを開始したアメリカ文学の大家ということになっております。その直前まで、19 世紀の小説世界というのは、ロマン主義の流れを経てきておりました。文学、あらゆる芸術はそうなんですけど、基本的には古典に依拠するクラシシズムと、それを爆破して内面の美しさ、内面の衝動を表現するロマン主義、この揺れ動きの中で芸術というのは二つ、動いていくわけなんですけれども、それをいったらアウフヘーベンする形、止揚する形で、内側にあるものを出しつつも外側のこの現実を対応させて、全てをリアルの上で書いていくリアリズムっていうのが 19 世紀真ん中ぐらい、アメリカでは勃興します。ヨーロッパではもうちょっと早いです。1830 年ぐらいです。そのアメリカでのリアリズムをつくったマーク・トウェインは、このように科学的な知識やとか、実際に目に見た事実みたいなものを非常に重視するわけなんです。デビュー作において非常に有名なフレーズがあって、全て私は自分の両目で見たことしか書かへんって彼は言うんですね。確かにそうなんです。ここで言われている科学的知識とは、もちろん光の速度と音の速度は違うということなんですよね。光の速度は 1 秒で 30 万キメートルでしたっけ、進むことになる。音は 1 秒間に 360 メーターしか進まへん。だから、映像の光よりも音は後からやってくるっていう、そういう知識がここに生かされてるはずなんです。

 ところが、これはやり過ぎです。なぜかというと、おのを振り上げて、振り下ろすというシーンって、せいぜい数百メーターです、見えるのは。つまり、きらーんと光って打ち下ろした瞬間の音は、きらーんと光って打ち下ろした瞬間か、せいぜい 1 秒後ぐらいに来るはずなんです。

 ところが、マーク・トウェインは 5 秒ぐらいの感じで書いてるわけなんですね。これ何が僕、引っ掛かったかというと、つまり、リアルとリアリティーの違いなんですわ。つまり、これに気付いた科学的な事実、科学的な真理を伝えるために、あえてマーク・トウェインはそれを誇張して、それがリアリティーを持ってわれわれに伝わるように、誇張して伝えてるわけですよね。つまり、真実性を誇張することによって、事実性をより強めていくっていう。でも、これ平たく言えば、うそなんですわ。フィクションなんですよ。どう考えたって、うそなんです。つまり、ここで僕が思ったのは、リアルのリアリティーを伝えるためには、むしろフィクション、つまり誇張とか、フィクションを通じたほうがよりリアリティーが感じられるっていうのをマーク・トウェインは発明しちゃったっていうのが非常に面白いなと、僕はその当時、思ったわけです。そこは僕の、いうたら文学研究の一番、興味があった部分なんですね。つまり、リアリティーを表現するためには、実はうそを使わなきゃいけない、フィクションを使わなきゃいけないっていうのが面白いと思って、ずっと研究していったっていうのが、写真をまだやっていない頃の僕の研究の興味でした。

 

 

http://judi.sub.jp/judi/201210semi.pdf

 

 

 

ここまで読んで、なるほど〜めっちゃ面白いやん となる

リアリティーを伝えるために、あえて誇張したフィクションを作る・・・

 

 

これこそまさに前述したエーリヒ・キプスの「鎌倉大仏」なのかもしれない

そのあまりにも巨大な鎌倉大仏は、人々の信仰心・畏怖・尊敬・象徴性 等々いろんなものを含んでいるのだと思う

結果的におそらく誇張して書かれているにも関わらず、ある種のリアリティーを持って我々に迫ってくるのである

 

 

ちなみに、そもそも人は対象物の大きさなんて正確に理解できていないと思っていて、例えば戸隠神社の杉並木

 

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これなんて、あべのハルカスより普通に大きいと自分は感じる

これも杉並木への畏怖とか圧倒感みたいなものが、余計にそれを大きく際立たせてしまうということがあり、つまりは精神的なものでモノの大きさなんて簡単に変わるのである

 

 

つまり、鎌倉大仏も当時は本当に人々にはこれくらいの大きさに見えていたのではないかと思う

周囲にこんなどデカい建物なんてないわけだし

 

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そう思うと、この絵はその当時のリアリティーを、写真以上に映し出しているのである

 

この”フィクションにより一層リアリティーが志向される” というのは他の絵でもあった

例えば「田舎の夕方」が描かれた絵では、田舎の夕方の本当に漆黒の闇に近付いていくあの暗さと、その中でもなぜか人の顔はきちんと識別できるという、あの不気味な感じが完璧に描かれていて感動してしまった

田舎では電灯もないような公園で野球なんかをしていると、日が落ちてくると本当に真っ暗になってしまう

そんな中でもわずかな光のみに頼って野球をした、あの頃を少し思い出した

グラデーションを伴った「闇」の感覚って、本当に都会民にはわからないんじゃないかと思うので、少し誇らしくなったし、それこそまた「過去への色付け」ができた気分であった

 

 

帰りは銭湯へ

美術館巡りというのは想像以上に足も精神も消費するもので、クタクタになったので銭湯へ行くことに

事前にオツ銭湯としてリストアップしていた丸太町の「桜湯」へ

 

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1番乗りだったので、脱衣場の写真も撮らせてもらった

 

中にはコイが泳ぐ水槽が設置されていてびっくり

 

そんな中でジェットバスに入りながら、その複雑な水流を見る

京都という街はいまこの浴槽のどのへんに佇んでいて、ジェットバスから噴出された激しい水流とどう繋がっていくのだろうか

 

色々なことを考えさせられた美術館巡りでした

 

まだ展示やってるので是非是非みなさんいってみて