なおやんの 手記手記 しゅっき〜

なおやんの 手記手記 しゅっき~

痛みに耐えて よく頑張った

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雑記_250622「デジタル盆踊りとの対決/フルートというモノサシ など」

Twitterがもう取り戻せないので日々感じたことはここにまとめることにする

これはいい機会かもしれない

 

デジタル盆踊りとの対決

会社で「さぬき高松まつり」の踊り手募集がかけられていた

徳島には絶対的な夏の祭り「阿波おどり」があり、それに負けてられないと高知では「よさこい祭り」、愛媛では「野球拳おどり」、そして香川では「さぬき高松まつり」が開催されている

徳島県である自分からするとその他四国三県の祭りなど目くそ鼻くそであり、勝手にやっておいてくれという感じであったが、高松に住んでいる以上「さぬき高松まつり」はどんなものか気になっていた

 

どうやら本番では、さぬき高松まつりのテーマソングに合わせてそれぞれの団体が街を踊りながら練り歩くらしい

問題はその音楽である 踊りが広範囲にわたる以上、スピーカーから録音を流すというのは仕方がないものの、せめてアンプラグドでアナログな音楽であってほしいなあという希望を込め、Youtubeで聴いてみる

 


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はいはい 終わり終わり 解散

解散なのは間違いないが、なにやら聞き覚えのあるシンセのミュージックである

これは、私が青春をともにしたサルゲッチュ2のステージBGMそっくりではないか(25秒くらいからの箇所)

この”アタックから徐々にピッチが変化するシンセの音色”はサルゲッチュの専売特許だと思っていたが、こんなところで聴けるとは思わず感動してしまった

いや、褒めている場合ではない

なぜ成熟した市民がサルゲッチュのステージBGMで踊らなくてはいけないのか

 

冒頭に書いた会社からの募集は、ただのダンスという振り付けだったのでそれには応募しないこととして、きちんと香川で昔から踊られている「一合まいた」という民踊の正式な踊りを披露する連もあったので参加しようか迷うこととなった

 

wadamon2016.studio.site

 

ここのHPの文章にはいささか心を動かされるものがある

 

四国は、徳島の阿波踊り、高知のよさこいと凄く華やかで人気の踊りがあります。
私もシーズンになれば、徳島や高知に行っていました。

でもね
香川の地域のお祭りに、郷土の踊りがないのを不思議に思っていました。
ある時、主催者に なぜ、他の県の踊り子がきているの。。。
と聞いた事がありました。
でも、その答えに。。強いショックを受けたのです。
「香川の踊りだと、盛り上がらないから」

..................

地元に対する誇りが失われたように感じたのです。
わだもんが、香川の「一合まいた」に こだわる理由です。
地域のお祭りに、その土地の踊りがないのは、 やっぱり寂しい。
きっと、大切にしてきた踊りがあるはずです。

この「一合まいた」は起源は古く江戸時代より前とも言われ、一部を除くほぼ香川県全域で踊られていた踊りです。
田の神への豊作祈願唄であり、踊りは、たくさん実ったお米を刈り入れる予祝となっています。
7~8月ごろに田の神へ捧げて踊る豊年踊りとして踊られていたのが、信仰心が薄れていった江戸時代末期になっては、
単なる夏の娯楽踊りと姿を変えそれがいつしか盆踊りとして、広まってきました。

昭和39年から始まった、さぬき高松まつりは、正調「一合まいた」をベースに作られていたと言われています。

【わだもん連】は、
讃岐の昔ながらの盆踊り「正調 一合まいた」に
こだわり、踊り伝えているグループです。
そして、現在のさぬき高松まつりの曲にあわせて、
「正調 一合まいた」の振付で踊っております。

 

ここに入って一合まいたを踊ってみたいとも思ったが、なにせBGMがサルゲッチュなのである

理念に共感しようが結局曲に支配されてしまうのがあまりにも悲しい

 

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きちんとした一合まいたの踊りを見ると阿波おどり似たようなリズムであり、これをアホみたいなエイトビートで踊れというのは無理がある

 

この、サルゲッチュを聴いて猛烈な違和感を感じるに至った「自分の中の盆踊りビート感」は、祖父母が徳島の人間であり阿波おどりに昔から慣れ親しんできたこともあるが、最近気付いたのが「最寄り駅の踏切」の影響もあるのではということ

 

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この情けない音の踏切は近鉄の地方の駅にいくとたまにあるが、私の最寄り駅にもあった(今は音が変わってしまった・・・)

このアホみたいな「ぺーぺーぺー」の音の切れ目に跳ねるような甲高い「ヤッ」という音が挟まるのがわかるだろうか

ぺー(ヤッ)ペー(ヤッ)ペー(ヤッ)

天才肌の私はこの合間の音を幼少期から認識しており、電車が来るたびに盆踊りビートを感じていたわけである

そんな天才シャッフルビーターの私にサルゲッチュで盆踊れというのはいささか困難な話であって、さぬき高松まつりは遠くから眺めるだけにしようと思う

 

ちなみにサルゲッチュには盆踊りのミニゲームがあり、このリズム判定がめちゃくちゃ微妙でプレイするたび発狂していた

しかしこのリズムの「揺らぎ」こそが盆踊りのアナログさ、理不尽さ、伝承の困難さなどを内包しているのではないかと大人になった今想うのである

 

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フルートというモノサシ

去年一瞬ソプラノサックスをレンタル楽器というシステムで借りて、ライブで吹いたことがあった

これが割とうまいこといったので(傍から見たら下手だったとは思うけど)、自分は管楽器界の大谷翔平だと思い込み、フルートも吹いてみたいと思うこととなった

 

楽器の良し悪しもわからないのでとりあえずメルカリで1万5千円くらいのヤマハの中古のを購入して吹いてみることに

大谷翔平なので、音さえ出せばどうにかできる自信はあった

 

届く 吹いてみる 鳴らない

一向に鳴らない 本当に鳴らない

お金をかけるつもりもないので独学で適当にやろうと思っていたが、まず音が鳴らないことにはどうしようもないので近所のフルート教室に体験レッスンへ行ってみることに

 

先生は50代くらいのおばちゃん

「楽器は持ってる?」と聞かれたので、経験者には怒られるかもしれないですがと前置きしたうえで「メルカリで1万5千円のを・・・」と伝えると「ああ、ガラクタだね」と一蹴

金銭価値で実用性を決めつけるなんて資本主義の犬かと思ったけど実際にその場でガラクタを吹いてくださり「音は鳴るけど、ちょっとキーが浮いてるね」とのこと

一旦ガラクタではなくレッスン用のきれいな楽器をその場で吹かせてもらうことに

 

「とりあえず息を出してもらえる?こちらから楽器を当てに行くので」とのことで、ただ息を吐いている自分の口元に先生がフルートを持ってきてくださる

他人にここまで口元の世話をしてもらうのは赤子以来で緊張する

資本主義の犬の犬となり、ただ息を吐き続ける私

そんな私の口の色々な場所にフルートの頭部管が当てられる

しかしなかなか音が鳴らない

 

「ああ、唇が厚いですね」と一言

 

なぜかその一言にドキッとしてしまう

すぐに頭に浮かんだのが、自分自身とキスをしたらどんな感じだろうかという気味の悪い想像であった

 

そして、30年間生きてきて、唇が人より厚いか薄いかをよくわかっていなかったというのも改めて驚きであった

毎日こんなに酷使する口の、めちゃめちゃ前面に出ている部分のことをなにもわかっていなかった

ただそれも当然のことで、唇が人より厚いか薄いかなんて、よっぽど見た目が特徴的でないと判断できないかもしれない

そしてそれは人からあまり伝えられることはない

なぜか

 

例えば付き合っている彼女に「あなたの唇、厚めだね」だなんて言われると、比較対象となる多数の男性の影が見えてしまうものであり、これは喧嘩沙汰になりかねない

 

肉体そのものの相対的な比較(例えば足が速いではなく足そのものの形)には、なにか性的な要素が絡んでしまう気がする

中立に平和にこの肉体の比較をするには、今回でいうフルートのようなモノサシや、それを客観的に判断する第三者といった存在が必要になる

 

自分の肉体が相対的にどのような位置にあるのかというのは、今回のフルートのレッスンを通して気になるところとなった

例えば肛門の位置なんていうのはどうやって他人と比較すればよいのだろうか

今回のフルートのようなプロセスを踏むならば

 

  1. 肛門からの空気で音を発生させる楽器を開発する(ホルンじゃなくてホラレルンとかいう最悪なネーミングが浮かんだ)
  2. その楽器が世に出回り、一定のユーザーを獲得する
  3. ユーザーへの指導で対価を得る市場が生まれる
  4. 講師が誕生する
  5. 講師が生徒への指導を通じて肛門の位置のデータを収集する
  6. 一定のデータを収集し、分析した結果、傾向が抽出される
  7. 「あなたの肛門は・・・」と相対的に生徒に伝えることが可能となる

 

気の遠くなるようなフローである

肛門の位置もわからないしフルートも吹けないし生まれてきた理由もわからなくなってきた

 

ちなみにレッスンは月3回からしかなく、月3回通うの普通に無理だなと思っちゃったので通わないことにしました

体験レッスンで技術だけ盗んでしまって申し訳ない気持ちでいっぱいです

ガラクタのフルートは溶かして爪切りにでもします

 

 

温泉と単位

近所に「仏生山温泉」というのがあり、驚くことに浴室内で本が読める

 

 

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今日も行ってきて司馬遼太郎の「坂の上の雲」の1巻を読んだ

残り150ページくらいだったので、これを読み切るまで出ないようにしよう、と決めて入ったら思いのほか時間がかかってしまった

ただありがたいのは、源泉がめっちゃぬるいため、いつまでも湯船に浸かってられることである

これが40度越えのお湯だと本なんて読めないと思う

なので、この「浴室内で本が読める」というサービスは、「源泉がぬるい」という条件(※)とセットであることが求められ、この仏生山温泉はそれにぴったりであった

※もちろんお湯を冷却すればよいのだが、それはロマンがない 対して仏生山温泉は源泉かけ流しなので文句のつけようがない

 

なので、今日は温泉に入る際に”150ページ”という単位を用いることとなった

通常、温泉に行くときは”だいたい1時間”とかいう時間の単位を使うのであるが、温泉という自由な場では色々な単位が使える

マブダチといくなら”話題○個”とかになるかもしれないし、サウナ好きなら”サウナ&水風呂○セット”など

ハンガリーのブダペストで入った温泉では客同士がチェスをしていたので、ここでは”チェス○試合”というのが用いられるかもしれない

 

 

中崎町の葉村温泉のサウナにはなぜか演歌がかかっていて、ここではサウナ限定にはなるが”○曲分”という単位が使える

いつもだいたい2曲か3曲くらいと決めて入っていたが、いよいよ曲が終わるかというパートで突如として冗長なサックスソロなどが差し込まれると血管が切れそうになっていた

 

温泉に限らず、物事はモノサシを変えるだけで一気に自由になるのかもしれないなと感じた次第です

(モノサシという言葉、最近多用している気がする)