○○ということ
なんだかnoteみたいなタイトルで気持ち悪いなと我ながら思う
noteの「行間を読みなさい」みたいな記事に溢れたあの感じが好きになれなくて、勝手に敵対視しているので
ただそれは嫉妬の裏返しかもしれない
ほら、だんだんエッセイ風の文体になってきたじゃない
行間を 感じ
て
よ
・・・
大阪にて
1月末に引っ越したのでもうすぐ引っ越して半年ほどになる
季節は冬から春 そして夏へ
先週の土曜日、オーボエのレッスンがあったのでいつものように本町へ
「暑くなってきたので、そろそろ夏ですね」
レッスンの先生は音大に通う年下の女性
いつもレッスンを始める前に嘘みたいなテンプレート天気話を始める
この日もいつものように話しかけてきた
先生も毎度アホらしくなってきているのか半ニヤケでこの話題を振ってくる
「いやめっちゃ暑いですよね もう夏ですよ」
俺も偏差値10くらいの返しをする
この会話をするときだけは言葉がお互いの人格から完全に切り離されているような感覚になる
いやもはやこの体が自分のものではない感覚
ハタチを超えてこんなアホみたいな会話をするわけないとおそらくお互い思っているのだろう
この儀式が終わると普通に雑談とかオーボエについての話が飛び交う
そして実際に吹いてみたりしてレッスンも終わり、帰路へ
といってもこの日は祖母の誕生日を祝うため実家に帰ってこいと言われており、そのまま実家行きの列車に乗り込む
奈良にて
線路は都会を抜け山を超え、川に沿って進んだところでうちの最寄駅にたどり着く
冷え切った列車から降り立つと、じんわりとした暑さに身を包まれると同時に、ふと後頭部を殴られたような感覚に襲われた
後頭部にショックがあると、原因の8割はレミーボンヤスキーの後ろ回し蹴りであるとの言説があるが、残り2割は過度なセンチメンタルによる頭のふらつきであるともされている
このときはその2割の方であった
駅のホームに降り立った瞬間、初めて「夏」が来た
季節なんてものは急激に訪れるものではなく、段階的にその濃度を増していくものであるが、このときは不意に夏に襲われてしまった
五感が夏を感じ取ったのである
五感を振り返る
朝のオーボエレッスンでの会話を思い出してみる
「暑いから もう夏」
もちろんこれは日本語的に全く違和感はない
ただ、大阪の梅田なんていう大都会に引っ越してみて、この日本語のもつ負の側面に気付く
「暑いから」という皮膚からの感覚以外に、夏を感じることができないのである
実家の奈良にいたときはこんなことはなかったはずである
もっと絶対的な、確信を持った夏がそこにはあった
以下、実家と梅田、つまり田舎と都会を対比させる形で五感による四季の感じ方について書いてみる
触覚
本来暑い寒いなんていうのは触れるようなものではないが、ここでは触覚としておく
つまり今の自分は、都会の四季について触覚でしかほとんど感知できない
完全に触覚のみに四季への感応を任せると、「外を歩いていて暑いから夏であったが、地下鉄の駅に入ると少し冷えたので秋になった」みたいな恐ろしい現象が起こってしまう
筒井康隆の「急流」の世界である
視覚
実家付近の高台より見える景色
これは間違いなく夏の風景である
冬にはたまに雪が振る
そして植物からは彩度が失われる
対して、家から会社までの都島通りには街路樹以外に自然はほとんどない
そこをスタスタと毎日歩いたところで、視覚的に季節の変動を感じることはなかなかできない
あったとしてもそれは通行人の服装がウンたらとか、二次的なものであって、視界の色合いが大きく変わるなんてことは起こらない
引っ越して初めて迎えた春に寂しかったのは、視界の端から端を急速に横切る黒い影が一切見えなかったことである
ツバメの巣の材料は、大都会では調達できないのだろうか
聴覚
夏になればセミが鳴く
これは都会も同じである
ただし田舎は夜になっても騒がしい
これはカエルであったり、秋が近づくと鈴虫であったり
夏が騒がしい分、田舎の冬は音が吸い込まれるような感覚になる
音がない という体験も、梅田ではなかなかできない
嗅覚
これが1番のセンチメンタル要素であったように思う
嗅覚から感じる四季
これはひとりひとりの人生経験にかなり依拠するものとなる
たとえば、自分は母方の実家が徳島で、父方が奈良であるが、徳島と奈良の四季の匂いは全く違う
もちろん都道府県単位での話ではなく、実家付近の環境の違いによるものである
長野県の渋温泉が、ちょうど徳島の実家付近と同じ匂いがするので、あの温泉には特別な思い入れがあったりする
このような、匂いによる記憶というのは大人になってから不意に思い出されることなんかがある
そして、めちゃくちゃに強烈である
急に昔の給食の匂いがしたと思うと、そのビジュアルまでくっきり浮かんだりする
おそらく給食それのみを思い出そうとしても苦労したはずである
しかし嗅覚と結びつけば瞬間的に思い出される
オトナ帝国のケンとチャコが嗅覚をターゲットとするのも頷ける
この強烈さはオトナにならないとわからない
この大都会梅田にも固有の匂いというものはあるのだろうかと思う
大都会で育った人間も、匂いと季節がきちんと強烈に結びついているのだろうか
味覚
味覚で四季を感じることができるというのは、流通機能が発達した現代では田舎も都会も同じことなので、ここでは省きます
人間らしさとは
こうして振り返ると、四季を感じることに対して、あくまで人間は受動的であり、人間が作り出せない要素による部分が大きな割合を占めているんじゃないかと思う(TUBEの前田や松任谷由実は人間であるにも関わらず季節性を作り出せるので非人間と考える)
つまり、人間以外の生物の多様性こそ、季節性を演出するものであるといえる
もちろん都会に比べ田舎の方がそのような多様性には富んでおり、振り返れば実家では人間的な暮らしをしていたなと思う
まあそれ以外の部分がとにかく不便で暮らしにくいので、これはあくまで局所的に美化された田舎論ではあるのだけれども
エピローグ
梅田に住み続けると、梅田での五感というものが養われてくるのだろうか
全くそんな風には思えない
ここは様々な娯楽に溢れ、利便性も高く、非常に楽しいけれど、もっと根本的なところで一抹の寂しさを感じることもある
梅田に引っ越したからといって何も考えずこの場所に染まってしまうことは避けなきゃいけない
きちんと自分のアイデンティティを守るためにも