大阪の街
先日、天神橋筋六丁目の「大阪くらしの今昔館」というところへ足を運んだ
家から徒歩10分で行けるのだが、なかなか行く機会がなかった
ビルの8階で入場料を払い、更に上の階へエスカレーターで上ると
なんとそこには大坂(大阪)の街が広がっていた!
といってもこの街はビルの9階部分に位置しているのでなんとも不思議な気分になる
もしかするとここが基準レベルで、我々の世界は下の下なのかもしれない
そうなると東京駅の京葉線ホームなんてほぼブラジルである
そしてこの街、ジオラマサイズかと思いきや実際に歩けるような実物サイズなのである
これは素晴らしい
もちろん家の中にも勝手にお邪魔することができて、
こちらの家なんか江戸時代にも関わらず天井からBOSEのスピーカー台をぶら下げていて超ハイカラ
家を荒らし回ってると知らない間に外は夜になっていて
天神祭の始まり
1月にひとり暮らしの物件を探すとき、「天神祭の花火が見えそう」を軸の1つに組み込もうとしていたことを思い出した
あんな軸で選んでいたら大後悔していただろうなと思う
「シャトレーゼが近い」とかのほうがよっぽど大事
階を降りると近代ゾーンになっていて
明治〜大正くらいの大阪の町並みがジオラマで再現されていたり
さて本題
この近代ゾーンでひときわ目を引くのが、地面に広がる巨大な大阪市の古地図である
これを見ると大阪市は碁盤の目状に非常に計画的に都市が構築されており、遡ればこれは豊臣秀吉の大坂城築城の際の街づくりに由来する
大学生のときは京都に住んでいたのだが、京都も平安京の名残で碁盤の目状に街が整理されており、割と迷うことなくどこへでも行けたような気がする(細い路地の小さな店が目的地だったりするとめっちゃ迷うけど)
このような街は、田舎と比べてある地点が非常に多い
下の画像で錯覚による黒い点が浮かび上がる場所、「十字路」である
自転車 ✕ 十字路
ひとり暮らしを初めてすぐに自転車を買った
家の周辺にはスーパーはもちろん、銭湯や音楽スタジオ、バッティングセンター等々、楽しいスポットがいっぱいなので、気が向いたときにすぐに向かえる交通手段が欲しかったのだ
スイスイと大阪の街を自転車で進む
梅田周辺なんかを自転車で進んでいると、改めて信じ難い気分になる
なぜ自分は梅田の街で自分の自転車を漕いでいるのか意味がわからなくなる
しかし戸惑う必要はない 俺はもう立派な大阪市民なのである
立派な大阪市民なので自転車を爆走したいところなのだが、なぜかなかなかスピードを出すことができない
当然、UberEatsの殺人自転車並のスピードを出すつもりはないけれども、ある程度スムーズに走行したいものである
この悩みは確か大学時代にもあった筈だと思い出す
あの頃も京都にて慎重に自転車を漕いでいた
その原因は、まさに「十字路」こいつが厄介なのである
このような十字路があった場合、自転車のスピードを落とさずに通行できるだろうか
俺は恐ろしくてできない
この写真でいうと、向かって左側に関しては完全に視界が遮られている
こんな場所をノーブレーキで突っ込むなんて自殺行為ではないか
なので、十字路のたびにスピードを落とすので、加減速を何度も繰り返す羽目になって全然自転車が進まないのである
アンチ・主人公性
ただ驚くのが、こんな悩みを持っているのは自分だけではないかと思えることである
大阪市内のチャリンコユーザーは皆、意に介さぬ様子でこの十字路に突っ込んでいく
万が一進行方向の横から自転車が進行してきたら、そのときはそのときだと腹をくくっているのだろうか
いやそんな風には全く見えない
その堂々たる走りは、ハナから事故の可能性など一切考慮していないように見える
その絶対的自信は何によって引き起こされるのだろうか
それは「主人公性」に他ならないのではないか
どの本すら忘れたけれども筒井康隆の本の中で印象に残っているページである
古今東西、突発的事件というものは常に、物語の主人公を危機一髪の窮地から救い出してきた。なぜかといえばそれは物語を中断させぬためであって、そのためには主人公以外の人間が善玉悪玉おかまいなしにばたばた死ぬのがこれまた常識であった。多くの人間が死なぬことにはそれが主人公の窮地を救うに足る突発的事件のように見えないためである。その意味からもおれは、受付の男が日本刀を振りかざして立ち塞がった時、さほど心配しなかった。しかしあとで考えて見ると、受付の男にしたって彼の内部の世界では、その世界の物語の主人公であった筈だ。
この本の主人公は、自らを主人公であると認識している
つまりフィクションをフィクションとして扱う、メタフィクションというやつである
この場面では、主人公は主人公ゆえに、日本刀を持った男に対して臆していないが、この男にしたって当然自らを主人公だと思い込んでいる
その後、日本刀の男に向かっていき、殺された助手も同じである
結局のところ世の中は、主人公と主人公のぶつかりあい、物語と物語の中断させあい、テーマとテーマの殺しあいであろうか。
人間は他者の視点を完全に持つことは不可能であるし、誰もが主人公性を持っていて当然である
豊臣秀吉は僕・私が自転車で滑走するためにこの道路を作ったのであり、そんな道路において横槍など飛んでくるはずがないではないか
こんな考えも全く間違いではない
こうして誰しもが当たり前のように主人公性を持ち、十字路を爆走する中、俺だけがブレーキレバーを握りしめ、甲高い摩擦音を響かせ路上で牛歩を演じる
これは、主人公性が蔓延る十字路における、「アンチ・主人公性」である
つまり、”自分は主人公ではないのだろうから、誰かに自転車で追突される可能性がある”との考えとなる
そして、おそらくこの「アンチ・主人公性」が圧倒的マイノリティーであるこの世界において、「アンチ・主人公性」を持った自分こそが主人公ではないだろうかと思うのである
俺は十字路において一旦自転車を停止させ、自らの主人公性を否定することによって、絶対的に自らが主人公であることを証明するのである
こうして、自転車に乗っている間は大阪が自分のものになったような気分を味わうことができる
大阪は自分のために作り出されたのだからそのような考えを持つのもおかしくない
ただ、絶対に自分は主人公であるにも関わらず、ノーブレーキで十字路に突っ込むことはできないのである
主人公性に対するアンチでしか自らの主人公性を獲得できないのは、本当は主人公ではないのではないのかもしれない
しかし、そのような懐疑的な主人公性こそ、一般化された主人公性とは異なっており、その希少性ゆえにやっぱり自分は主人公に間違いないのであり・・・