なおやんの 手記手記 しゅっき〜

なおやんの 手記手記 しゅっき~

痛みに耐えて よく頑張った

ブログタイトル

打倒ボンヤスキー

地球は青かった

そして、レミーボンヤスキーは強かった

 

幼少期、K-1中継があると坂本家は宴会であり、子どもたちにはお菓子とジュースが振る舞われていた

リビングの机にはポリンキー

テレビの中ではボンヤスキー

 

レミー・ボンヤスキーインタビュー=K-1 - スポーツナビ

 

その俊敏な動きと、ほんの僅かな隙をついて繰り出される強烈な飛び蹴りや回し蹴りにより、ボンヤスキーより遥かに屈強に見える男たちがいとも簡単にリングへ崩れ落ちてきた

間違いなく世界で1番強い男はこいつだと思った

そして自分はボンヤスキーを倒すために生を授かったのだと確信した

 

 

だからずっとLINEの一言メッセージにもその言葉を掲げてきたのだが、その背後の写真を見ると、雑種犬とそこまで腕の太さが変わらない自分の弱い肉体に気付く

 

ただ自分には確実にボンヤスキーに勝てる方法が浮かんでいた

ボンヤスキーの老衰を待てば良いのである

 

彼はいま47歳

さすがに歳には勝てない

自分はただなにもせず、待てばよい

 

 

 

そんな甘い考えが通用するはずがない

ボンヤスキーは俺より弱体化することなく、天寿を全うし、逝去する

ボンヤスキーが亡くなる1秒前の状態で時を止め、ナゴヤドーム中央に置かれたリングにて俺とヨボヨボボンヤスキーが対峙したとして、1分以内に俺の方が死ぬことになる

 

 

 

また輪廻転生したボンヤスキーも俺より強い状態で生まれてくる

転生した赤ん坊はなぜか二階幹事長に顔が似ているが、確実に俺を一発で仕留める

 

これではボンヤスキーに勝てない

俺が強くならなくてはいけない

 

 

R=レミー・ボンヤスキー

N=ナオヤ・サカモト

 

このときR=Nとなる点において効用が最大となる

効用とは、観客の満足度でもあるし、机の上に広げられたポリンキーの美味しさ指数でもある

RとNの実力が拮抗したこのR=Nにおける試合が1番面白いに決まっている

 

自分が強くなることで世の中に様々な効用をもたらすことができる

 

 

最近パーソナルジムに通い始めた友人がやけにパーソナルジムの素晴らしさを説いてくるので、打倒ボンヤスキーの野望を胸に、通ってみることにした

 

日ごろ週に2回程度、1回あたり5キロくらいランニングをしているくらいで自分はちょっと体力があると思いこんでいたのが運の尽き

初回からバチボコにやられ、虫の息

昔運動部であったのもあり、このボーダーを超えるとヤバいことになるという記憶が作動し、その手前で休憩を要求

 

床に寝そべる自分 横には正座をして待っていてくれているトレーナー

映画「おくりびと」のワンシーンかと思う

仕事のことを一旦頭から離して運動に打ち込みたいのに、頭の中には”単価”や”工数”といったワードがチラつく

自分がただただ寝ているこの時間にもトレーナー単価が発生している

ただこの状況を客観的に見るとお金を払っていいくらい面白いのでもうこれで良い気がしてきた

 

その後も吐きそうになりながらなんとか終了

あくまでもこちらがお金を払っているので破壊されることがないと思いこんでいたが、トレーナーは簡単に人を破壊するのだと知った

 

完全に足をやられ、次の日からピグモンみたいな移動方法しかできなくなり死にたくなる

1月にも蔵王温泉スキー場で足を怪我し、3月まで足を引きずって歩いていたが、またしても足が使い物にならなくなってしまった

 

破壊こそ創造の母 ー 岡本太郎

 

20代でスキー検定2級

30代で技術士2次試験合格

そして死ぬまでに打倒ボンヤスキー

 

頑張れ自分 負けるなよ

 

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舞台

「1万5千円あったら何が欲しい?」

 

うーん なんでしょう

考え込んでしまった

 

 

家から徒歩10分 パスタが美味しいバー

ずっと行きたいと思っていたもののなかなか行く度胸がなく、今日が初めての訪問だった

ゆえに少し緊張しており、ぼーっとメニューを見ていたときに右隣のお姉さんに話しかけられたのが冒頭の言葉であった

 

カウンターの向かいにいる男前の若い店員が今月いっぱいで辞めてしまうらしく、なにか最後にプレゼントを贈ろうと思い、なにをあげたら喜ぶだろうと俺に質問してきたらしい

1万5千円って予算でかないですか?と指摘しつつ、唸りながら考える

 

生ハム・・・ですかね・・・

 

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大学時代はランダムステージ構築に魂を売ってしまったのだが、その過酷さゆえ色んな人から差し入れをもらうことがあった

その差し入れのひとつに生ハムがあった

 

ランダムステージ構築係のドカタ連中はこの生ハムに狂喜乱舞した

その日から俺たちは生ハムと共に「過ごした」

 


生ハムが中心にある生活

なんて幸せなんだろうか

ただ写真を見返すと一緒にいる連中の民度が低すぎて差し引き幸福度はマイナスだった気がしてくる

 

 

生ハムを食べ過ぎるとどうなるか、これってそこそこの富豪も知らないんじゃないかと思う

当時、室内楽団という年会費3,000円のサークルを「年会費が高すぎる」という理由で離脱した極貧人間の自分だったが、生ハムを過剰摂取するとどうなるかという、富豪も知らない真実に21歳にしてたどり着いた

 

答えは油分の摂りすぎにより引き起こされる嘔吐であった

しかしそれはただの嘔吐ではない、「幸福な嘔吐」であった

椎名林檎の楽曲にありそうなタイトル

 

そんな生ハムと過ごしたかけがえのない日々を回想し、そしてそれを説明しながら、生ハムへの愛を伝えた

 

「でも生ハムって土台の木の部分も割と値段するっていうよね」

お姉さんから指摘が入る

 

「あ、そうなんですか!生ハムってランニングコストで稼ぐんですか!コピー機と同じですね!」

あとから思い返しても自分のこの言動は本当に意味がわからない

頭が悪すぎる

生ハム愛を伝え終えたからもうどうでもよくなっていたのだろうか

肉部分がイニシャルコストで木がランニングコストなわけがない

どちらかというと逆な気もするけど逆でもない

 

 

 

途中で40代くらいの男性のお客が店にやってきて、左隣に座った

俺はずっと右隣のお姉さんと話していたのだけれど、ちょこちょこ左隣の人と店員との会話が耳に入ってくる

その会話の断片には、大阪の色々なホールや劇場の名称が混ざっており、俄然興味が湧いてしまったので、お姉さんがトイレに行った際に左のお兄さんに話しかけてみる

 

劇団員の人であった もともとは劇団四季にいたらしい

無条件に憧れるよね 劇団員

 

「いやー なかなか演劇って若い子が見てくれないんですよね チケットが高すぎるんですよ」

 

劇団員は嘆く

バーで嘆く劇団員が1番かっこいい

誤った生ハムの収益構造を語る交通計画技術員が1番ダサい

よく出禁にされなかったなと思う

 

たまたま最近見た本に、ニューヨークやロンドンの劇場では学生向けの格安立ち見席が売られていて、気軽に若者が立ち寄ることができると書かれていたのでその内容を伝えると、

「それめっちゃいいですね!日本でもやるべきですよね」

と興味を持って話を聞いてくれ、そこからは色々とお話ができた

 

今は”ドリームガールズ”という演目に出演し、大阪公演があるときはこのバーに寄るそう

今週末も梅田芸術劇場でやるんですといった話や、演目内容を時代背景から丁寧に解説されているうちに、このお兄さんの演劇愛と相まってなんだか行きたくなってしまい、「行きまあす」と宣言してしまった

 

そのあと、演劇を観に行く見返りといっては下品だけれども、当時個人的に苦しんでいた出来事があったので、人生相談をさせてもらった

こちらの相談を受けたお兄さんはゆっくりとした口調で語る

 

「劇団員というのはね、悲しみや怒り、そういった消化できない感情に対して、自らを俯瞰的に見つめたうえでそれを演技に昇華させる。だから劇団員にとってそういった出来事は自分を強くする材料になるんです。」

 

私は劇団員ではないのですが・・・という言葉が前歯まで来ていたが、ただこれは一般化できる考えでもあるので、しっかりと受け止めた

昇華作業を行うプラットフォームはこういった文章によるものかもしれないし、人との会話かもしれない

あるいは全く別の、仕事だったり趣味だったり、そういったところに見出だせるのかもしれない

 

劇団員のお兄さんは明日も本番らしく、2杯ほど飲んで帰り支度をし始めた

チケット買っときますねと伝えると、「ああいいよいいよ、取り置きしとくから明日改めてLINEちょうだい」と、LINEの交換だけして、先に店を出られた

 

 

翌日

 

行くと言ってしまったから行かなきゃなあと思って演目のチケットを見る

1番安いB席でも5,000円

普段舞台とか行かないから高く感じてしまう

趣味における入り口問題って難しいよね

例えばスキーにしても、安く済まそうと思えば近所の滋賀のスキー場へ行くのが1番なのだが、スキー場の質は低く、本当に楽しめるのかと思う

一方、お金をかければ信州方面の良質なスキー場へ行けるわけだけど、初心者ゆえ支出額と楽しさを比較したときにきちんと納得してくれるか心配になる

おそらく今自分は信州方面のスキー場へ行こうとしている

たった5,000円だけれど

 

「昨日は楽しかったです!すみませんB席を1枚取り置きお願いします!」

 

昨日のお兄さんにLINEを送った

 

「ごめん!もうS席を押さえちゃってて (汗汗 の絵文字)」

 

予期せぬ返事に言葉を失う

S席?松竹梅の梅の頭文字BよりB席を指定したわけだが、松の頭文字Sいかれました?まじ?

 

恐る恐るホームページを見る

松竹梅の3段重ねがきちんと機能しており、松は梅の3倍!わかりやすい!明瞭会計あざすあざす!!

 

チケットが高すぎることを嘆いていたお兄さんの言葉

1万5千円あったら何が欲しいと尋ねてきたお姉さんの言葉

色んな音が脳裏を飛び交う

俺の1万5千円はここに収束した

でもこれもなにかの機会

なかなか舞台を見ることもないし、普通に興奮してきた

 

 

体感では客の8割が女性でびっくりする

 

席は2階の前の方だった

「2階の方が全体の構成とか見やすいよ!」と、LINEのメッセージにも書いてあった

 

舞台が始まる

おおまかなストーリは、黒人3人組のグループがプロのシンガーとなり、まだ黒人差別の色濃く残るアメリカにおいて、逆境に負けず成功していくような内容であった

 

始まってすぐ、まずプロとなるオーディションに受かり、そこからトントン拍子で活動範囲を広げていく3人組

 

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収入=お湯 と表現するのは上の記事では意図しないものであるけれど、今だけそういった仮定を持つとすると、舞台が始まって序盤で彼女たちはプロとしてそこそこの地位になり、鉛温泉へ飛び込んだ

 

鉛温泉 藤三旅館(2020年7月訪問)

鉛温泉は深さ1.3mの浴槽があり、肩までどかんと上質なお湯が包み込む

つまり、彼女たちは色んなことにチャレンジしていくのだが、見ている側としてそこには「危険」が伴っていない感覚があった

もしこのチャレンジに失敗してもあなたたち鉛温泉に浸かっているから大丈夫ですやん、と

 

例えるならベンチャー企業が一か八かで販路を広げていくような、スリリングでワクワクするような話ではなく、アイリスオーヤマがひたすら新商品を開発していくような話に自分は感じられた

 

この前バーにいたお兄さんは主役級ではなかったのだけれども、その分色んな役をされていて、1番良かったのが「黒人3人組の曲を全パクリして自分の曲としてヒットチャートに載ろうとする白人」の役であった

出てきた瞬間ウォーターワールドのごとくブーイングしてやろうかと思った

 

自分が現実と虚構を区別できない人間であったなら

「すみません、あんまり長生きされない方がいいかなって(汗汗 の絵文字)」と終演後にLINEを送っていたかもしれないので、最低限の判断力がある人間でよかったと思う

 

その後も3人組の中でも主役のシンガー(福原みほがやっていてめちゃくちゃ歌は上手かった 福原みほってどこかで聞いたことあると思ったらPYRAMIDの最新アルバムで歌ってた人やった)が、グループ内で男を取り合ったり、高いプライドゆえセンターを譲ることを断固として嫌がったり、割と内輪のゴタゴタがメインで話が進んでいく

このあたりも、もっと時代背景と絡めて、社会との軋轢みたいなものが表現されていたら面白かったかも、とか

 

結果的に主役のシンガーはグループを出ていってしまうのだけれど、最後にそのグループの引退ライブのときに復活!

周りの客は割と泣いていたけど自分はあんまり感情移入できなかった・・・

 

といった感じで個人的にストーリーはそんなに刺さらなかったけれど、久々の生演劇というのは興奮する内容ではあった

まず舞台の華やかさ、転換のスムーズさ、そして演者の声量、演技力、歌唱力

さすがプロはすごいなあと終始圧倒されていた

 

そしてそれを2階から見下ろせたのが良かったと思う

舞台上ではあくまでスポットライトが当たっている箇所の演者をメインにストーリーが進んでいくが、その後ろの暗い箇所でも色々な演技をしている役者がいる

こういった奥行きや明暗差

 

また同じ舞台上で、過去の出来事や違う場所での出来事がふと挟みこまれることがある

時間や距離といった制約を超えた出来事同士の併存

 

そして舞台が暗転すると全く別のセットになり、演者たちの立ち回りも変わる

 

これらは主観的な意識の流れに似ているんじゃないかと思った

そして、バーで出会ったお兄さんは「自分を俯瞰的に見る」ことの大事さをおっしゃっていた

つまり、主観的かつ俯瞰的に、まさに2階席から舞台を見るように自分を見つめることができれば多面的に物事が見られるような気がする

そういった意味で、今回の舞台はこの「視点」を獲得できただけでも有意義だったなあと思う

 

そしてここで大事なのは、そうやって自分をメタ的に見たときに、その舞台をパロディ化して自暴自棄になったり、ニヒリズムを抱き何もやる気が起きなかったりしてはいけないということ

俯瞰的に見るけれどもしっかりと自分と向き合う、といった姿勢を持つ必要がある

簡単にできることじゃないけどね

 

また、舞台が暗転して違う環境が映し出されるように、人は色々な環世界を生きなければならず、その環世界間の互換性、つながり、分断、等々、、といったところも改めて俯瞰的に見つめてみると色々なことが見えてくるはず

1番わかりやすいのは仕事における自分とプライベートにおける自分、これがどこまで相互に影響するものなのか

人によっては全く暗転せずに地続きで舞台が進行していくのかもしれない

もちろんなにが正解とかはなく、千差万別だろうなあと

 

 

 

冒頭のお姉さんとはその後毎週お酒を飲む仲になったのだけれど、もうすぐ四国八十八ヶ所巡りに旅立ち、1ヶ月ほど帰ってこない

 

自分の舞台の奥の方にはしばらくミニ四国山地がそびえ立ち、たまに舞台中央へと四国特有のぬるくて湿度の高い風を送り込んでくれるのだろう

 

これからも様々な出来事や色んな人間と出会い、自分の舞台はそのたびに華やかにカオスになっていく

 

 

ただ、ボブサップVS曙を生で観戦したという直属の上司のシンボルとして、限られた舞台スペースの目立つ位置にいつまでも曙が寝ているので、これだけはどうにかしたいなと思う

 

ガンの飛ばしあい 曙、サップ 屈辱の“カエルKO負け”に「ずっと苦しんだ」 : まとめニュース数寄

 

幸福に生きる

毎週文章を書いてアップするのを目標にしようと思う

 

この3月はそこそこの規模の主担当業務が2件あり、2つまとめて4万字くらいの報告書を書き上げたのだけれど4万字とかでも死ぬかと思った

自分の文章構築能力のなさに愕然としたことも多々あったし、この仕事そのものが文章を書くこと、またストーリーを構築することを求められることがやっとわかってきた

要するに小説家の能力が求められる 俺は江戸川乱歩にならなければならない

 

書き上げた報告書はそれぞれ100ページを超え、そのずっしりとした重みは我が子を思わせる

この報告書とともに旅に出たくなるほど愛おしい

ただ上司にもかなり手伝ってもらったところもあり、純度100%の我が子ではない

いつか自分だけの、純度100%の愛せる報告書を作れたら、それを枕にして眠りたいと思う

 

 

4/7(金)

大好きな近所のバーのうちのひとつ、REHABへ行った

タワレコ店長であるマスターの音楽知識は相当のもので(自分は音楽知識皆無なのでそもそも音楽知識の評価ができる立場じゃないけれど)、行けばいつも新しい音楽に出会えるし、一緒に誰かを連れて行くとその人の好きな音楽の会話にマスターが合わせてくれたり、その場で流してくれたりする

そしてこのバーの売りは、まず店内にある膨大なレコードの中からその場でレコードを回してもらえることに加え、真空管アンプとスピーカーがマスターの自作で、独特の音質で音楽が聴けることである

自分もメセニーのStillLifeをアルバム通してここで聴けた日は人生で1番美味しいお酒が飲めた気がする

 

この日はカウンターの端に若い女性2人が座っていて、「聴きたい音楽ありますか?」とマスターが尋ねるが、あんまり海外の音楽がわからない模様

 

「金曜日の夜って感じの音楽ありますか?」

 

この突拍子もない返しに苦悶の表情を浮かびながらマスターが選んだのはアース・ウィンド・アンド・ファイアーの「Fantasy」

 

俺と俺の連れ、そして女の子2人、加えてマスター

全員が薬物をやっているような恍惚とした表情を浮かべていた

幸福だと思った 

結局人生ははここに収束するのではないかと思った

 

 


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4/3(月)

晩にスーパー銭湯へ行った

まぢ日常のクロノス時間だるすぎるから、ここではカイロス時間でいかせてな

4/7の出来事の次に4/3の事象を書くこと これなんの問題も無いでな

 

洗い場で頭を洗っているとやけに棘のある声が耳に届く

横を見ると大浴槽でおっさんがなにやらうるさい

おっさんの横には若い兄ちゃんがいた

 

しばらく聞いているとどうやら説教であることがわかる

なんとかわいそうなことに、この若者はスーパー銭湯の浴槽内で説教を受けているのである

 

当然最初はおっさんへの戸惑いがあったが、途中から若者への同情に変わってきた

この若者も最初は、100数ページの報告書ほどの重さの体重で生まれてきたのだろう(本来は報告書100ページの重さが新生児の体重と同じわけがないけれども、ストーリー性維持のため、平気で現実を捻じ曲げようと思う)

 

その後いろんな過程を経て、様々な困難にぶつかり、でもそれを乗り越え、仲間とともに前進してきたのだろう

 

でも彼は「なにわの湯」の人工炭酸風呂(体内に取り込まれた炭酸ガスは全身の血管を拡張し、血液の循環をよくする効果を持ちます。 肌に優しい弱酸性で毛穴を引き締め、湯あがりにはなめらかで潤いのある肌を実感できます。ー引用「なにわの湯」HP)の浴槽内でおっさんに怒鳴られる、この瞬間へと収束してしまった

 

ああなんとかわいそうな・・・でもこれを機に彼は強くなる

そんなことを思っていたがふと気付く

彼は浴槽内にいる お湯に浸かっている

 

彼は そんなに不快ではないのではないか?

 

横のおっさんを見る

ああもうだめだ 薬物をやっている Fantasyを聴いている

説教してる方は最高の気分に決まってるわな

 

 

 

昔、駅員をやっていた時代

駅の運営というのは、1つの大きな主要駅が付近の無人駅などを含めて管轄しているシステムで、この日はその無人駅の1つにおいて、客から「待合室に異物がある」と通報があった

 

異物ってなんすか? 上司に聴くが、よくわからないという

とにかく行け坂本 処理してこい

 

俺は覚悟を決めた

爆弾であろうが発情期のグリズリーであろうが、俺が処理する

 

待合室には人糞があった

無理だ 仕事を辞めようと思った

 

それはパッと見だと犬糞にも見えなくもない

ただやはり人糞はすぐにわかる

その塊には、地球が生み出した最高傑作「人類」の叡智が詰まっている

そんなものさえ見分けられない奴はもう犬同然

人糞を人糞と見分けられるこの知能によってこそ人糞は定義される

これをEXCELでやると循環参照になるのでやはり人類というのは素晴らしい知能を持っていると思う

 

さて人糞が待合室にあったのだが、驚いたことに駅にいた客は皆平然としてその待合室の中にいたのである

その日は真夏の猛暑日で、客は「暑さ」と「臭さ」を比較し、自らの健康へ与える影響等を合理的に判断した上で、「臭さ」の方が耐えれるとし、待合室へ留まったらしい

 

俺は感動した もう少しこの仕事を続けようと思った

なかなかこんな実験できるものではない

そもそも実験であるとしても被験者を人糞と同じ場所に留めるという内容はあまりにも非人道的である

であるのに、ここには奇跡と呼んでもよいサンプルが何人もいた

これだけのサンプルが100%人糞を選択したのだから、この駅周辺の住民へこのサンプルを拡大しても問題ないと思う

 

 

いや、やっぱり仕事を辞めようかな

全国の駅の待合室に人糞を置く旅へ出たくなった

 

やはり地域性がわかりやすいのは大阪と東京を結ぶ東海道線だろうか

東海道中人糞毛(ヒトクソゲ)

これを実行するためなら人生を捧げてもよいかもしれない

 

大阪では合理的に待合室にとどまる人が多い気がするが、京都へ行けば見栄を張って外へ出る人も多いように思われる

合理性も見栄も備えた東京へ行くと、どうしていいかわからなくなった客が待合室と外の境界で小刻みに震え出すとかいう現象を見ることができるかもしれない

永野芽郁主演 「半分、臭い。」

どちらかに飛び込めないというのも非常に人間的であり、多分それを見ると人類愛ゆえ泣いてしまうと思う

 

 

 

さてそんな、どちらを選んでも苦しい という状況に比べて浴槽内の若者はどうだろうか

説教を受けて精神的には苦しいが、体は快楽そのものである

恵まれているように思えないだろうか

甘えるなよ若者 人生はもっと辛いことがあるんだぞ

 

でも自分だと浴槽内にいたとしても泣いてしまうと思う

どこまでなら許容できるだろうか

多分ヘッドスパくらいいかないと苦しいと思う

ヘッドスパを受けながらの説教はさすがに気持ち良さが勝つ気がする

いや絶対気持ちいいに決まっている

 

ただ、なんで美容室でヘッドスパを受けている横で上司がいて俺の欠点を糾弾するのかと、冷静に状況を想定するとやっぱり号泣してしまうかも

 

 

この若者がどれだけ辛かったかはわからないけれども、お湯に浸かっていることにより苦しさは低減されたはずである

要するに、ずっとお風呂に浸かっていればよい

ちょっとやそっとのことで心が折れないよう、人生の中でもお風呂に浸かり続けているような状態

これって幸福に生きる上では大事だろうなと思う

中崎町に住んで、人生って色んな楽しいことがあるんだなと再認識した部分がある

人によって何を快楽とみなすかは色々あると思うけれども、人糞か猛暑かの選択を迫られたときも、お風呂に浸かっていればそんなに苦しまないんじゃないかな

 

でもやっぱりお風呂に浸かっていてすぐ横に人糞があったら泣くかも

だからもう人糞は見たくない

 

 

久々に風邪ひいた

8年ぶりに風邪をひいた

8年前の風邪はなんだったかというと高校の卒業旅行で行った富士急ハイランドで叫びすぎて喉おかしくなって、そこから菌が入り込んで寝込んだという情けないもの

 

ただ今回は本当に原因もわからず、電車の中で感染したとしか思えないし、運がないなあといったところ

 

おそらくちゃんと発症したのは12/11日曜の夜

週末が終わり明日からGDPを回すことへの面倒さから気分は落ち込む一方、体だけはやけに熱くなり、整合性取れてないなあと思いつつ、ほとんど一睡もできないくらい苦しみ、朝に体温を測るとめちゃくちゃ発熱してた

 

この時点で「コロナでは・・・?」という最悪の事態が頭をよぎり、家から一歩も出れないことになれば買い物とかお願いするかもとの考えから、近所に住む友人に発熱の旨を周知

すると友人から「自分がコロナになったとき、クマさんみたいな医師がいる医院に行ったよ」との連絡

 

だあ!クマさん!

 

ちょうどゴールデンカムイのアニメを最近見始めており、クマという生き物への畏怖と尊敬の念が芽生えていたので、無条件でクマさんのいる医院へ行くことに

 

医院では、コロナの疑いがあるため、モンスターズインクで背中に靴下ついた奴みたいな扱いを受けるがこれは仕方がない

カーテンで仕切られただけの簡易的な個室に通され、少し待っているとカーテンが開かれる

 

イタクラ on Twitter: "ジュラシック・パーク #トイレが印象的な映画 https://t.co/qDVD71Uscf" / Twitter

 

ああこれがクマさんだとひと目でわかるデカさ

自分自身が弱っていることもあり明らかに相手が大きく見える

 

殺すなら殺してくれという気分になるが、蜂の巣の穴を木の棒でほじくるように俺の鼻をかき回して帰っていった

割と痛かった

ただ、久々に他人に痛みを与えられて少し嬉しい気分に

人と人とのぶつかり合いを感じたのだ

 

半年ほど前に、梅田の茶屋町にて「殴ってください」というボードを持った若年男性が突っ立っていて恐怖したけれども、少し気持ちがわかった気がする

 

結局その日のうちに出た結果によりコロナもインフルも陰性とのことで一安心し、その日は薬を飲んでおかゆを作ってひたすら寝た

 

 

翌日火曜日もまだ発熱は続く

 

 

午前10時 テレビには妹尾和夫が映し出される

妹尾和夫により「自分は今、発熱状態にある」という事実が改めて浮き彫りになる

なぜなら風邪をひいたとき以外妹尾和夫をテレビで見ることはないからである

自分の体の内側からではなく、外側から自身の風邪を実感できる存在なのだ

例えば熱さまシートやお粥など、風邪をひいたときにしか目にしないものは他にもあるが、あくまでそれは自分が買ったり作り出したりしたものである

 

妹尾和夫は違う

こちらからなんの働きかけをせずとも風邪をひくと自然と浮かびあがる

 

仮に妹尾和夫を風邪神と呼ぶとしよう

風邪神妹尾和夫は当然忌避すべき存在である

事実自分も風邪をひいて参ってしまっているし、こんな状態にはならないに越したことはない

では台所から包丁を持ってきてテレビの妹尾和夫に向かってぶん投げればよいかというとそんなわけはない

当然、風邪神が激怒するからである

激怒した風邪神は対象の体温を5000度に熱することもできる 自然発火が起きる

そこでこちらサイドはどうするかというと、「表面的に快く迎える」のだ

 

沖縄では天然痘は「美ら瘡(チュラカサ)」と呼ばれていた

なぜ忌まわしい天然痘に対して「美」という文字を含む呼び名がついたのか

折口信夫は、”病といえども他界から訪れる神だから、とりあえずほめて迎え、快く送り出すならわしになっている”と解釈している

 

だから自分も妹尾和夫を無下にはできない

妹尾和夫が勧める数々の商品は、絶対に買うべきなのである

風邪のときは食欲のみならずあらゆる欲が消えるため買わないだけで、本当は買いたい

ただ風邪のときにしか妹尾和夫には会えないので妹尾和夫が勧める商品は結局のところ永久に手に入らないのである

 

これが「妹尾和夫パラドックス」である

 

 

 

 

翌日もぼーっとテレビを見ていると風邪神が映し出される

あっ自分は発熱している 気付く

熱を測る 38.8度 だめだあ 診療機関に行かなきゃ

ただの風邪だと判断されたのに水曜日まで長引いており、かつ高熱である

クマさんの診断は大丈夫なのか?との疑念

 

そんな思いを抱きつつも前に診てもらったのでもう一度行こうと思い、電話番号を調べようとHPを開く

 

 

HPに映し出されたクマさんの写真に疑念が強まる

本当に大丈夫か?大丈夫なの?大丈夫だよ 大丈夫か?大丈夫さ 大丈夫

 

 

朝11時ごろに医院に向かった

医院の玄関には、カメラ付きの「顔を枠内にはめてください」タイプの体温測定器がある

ティロリロリン 35.8度!

初めてここに来たときもこの機械は30.0度との結果を出してびっくりしたことがあり、そのときは「熱が高すぎて反対サイドに振れたのかな?」との拡大解釈でなんとか許してあげたが、今日は超平熱を出してきたのでもう救いようがない

 

診察室ではまずおばちゃんに熱を測ってもらう

家で測ってきたら38度あったことは先に伝えてあるが、念の為もう一度測るらしい

これは、飲食店でよくあるような手首やおでこに一瞬あてるだけのような機械で、首元にあてられ”36.6度”との結果

おばちゃんに「38度っていうのは朝イチの体温よね?」と確認される

本当はつい先程家で測ってきた数字だが、急に自分の体温に自信がなくなり、「朝の体温です、、、」と言わざるを得ない

 

発熱の状態から脱したくて医院にやってきたのに、発熱している自分という状態を否定されると途端に居心地が悪くなり、もはやきちんと発熱してくれという思いすら出てくる

おばちゃんの去ったあとも、診察室にて釈然としないモヤモヤとした気分でいた

 

そのとき、ドアがノックされる

 

 

 

「待たせたね」

だあ!クマさん!!!

 

クマさんはそんな私のもやもやを吹き飛ばすかのごとく、犬みたいに私の首元をさすってくれ、

「ああ、熱が長引いてますね」と一言

 

ああ、、その一言が聞きたかった、、きちんと私は発熱してたんだよお、、、

 

やはり人と人とのぶつかり合いだと思う

人生それが全てなのだ

 

 

岡本太郎は「技術が人を幸せにするわけがない」と、ハナから万博の掲げる「人類の進歩と調和」に反対しており、反万博の象徴として丹下健三設計の近代的な大屋根をぶち破って太陽の塔を作り上げたのである

 

自分もクマさんに対し肉体と肉体をぶつけ、それによって自分という人間を正しく認識してもらった

技術に頼るのもよいけれど、結局は人と人との肉体的なぶつかり合いでしかわからないこともあるのだ

 

その点、カメラ型や首元にあてるだけの体温測定器は、結局人ときちんと向き合っていなかったし、逆に家で使っていた体温計はきちんと人体の最も熱い箇所に飛び込んでいき、身を持って体温を証明していた

 

一体誰の利権であんなふざけた体温測定器が普及しているのだろうかと思う

その利権の親元を特定するまで徹底的に戦い抜く

親元を特定したら代表者を椅子にくくりつけて映画「ザ・コア」を観賞させる

いかに自分たちが表面のみで物事を考えているかをわからせてやりたい

 

 

そして一方で妹尾和夫は表面的にやり過ごす

表面とコアの使い分け 大切にしていきましょう という話です

 

以上風邪をひいていろいろ考えたことでした

風邪をひくと人の優しさが身に沁みます 皆様ご心配ありがとうございました

 

断髪そしてロマン主義

 

割と髪伸びてきたし今週お客さんとの打合せもあるし髪切っとくか〜といった突発的な感覚で会社のお昼休みに美容院を予約した

 

行きつけのところは埋まっていたので、会社近くの美容院を予約

残業あるかどうか微妙だしとりあえず20時くらいに予約しとくか〜といった流れで予約したものの、その日は大した仕事もなく、ノー残業デーであったことから定時近くに退社

 

20時まで時間もあるので美容院近くの中華料理屋へ

 

 

こちらが本格も本格の中華で、メニューを読ませる気が一切ない

干すって漢字あんまり中華料理で出てきてほしくないかも

中華料理は水分油分を多く含んでいてほしい

かといって「湿」って漢字が入っているのもナァ なんて思いつつ結局日本語メニューもきちんとあったのでそれを見ながらビールも飲みつつお食事

 

しかし連日の疲れが蓄積されていたのか、やけに酔いがまわり、一杯飲んだだけなのに顔を真っ赤にして店を出る羽目に

 

フラフラと歩いて辿り着いたのは美容院

そう、今日は髪を切らなければいけない

 

赤黒い顔の担当の男性が後ろにつき「今日はどうされますか」と聞いてくださる

もうこちらは酔っているので「伸びた分だけ切ってもらったら」としか言えない

 

途中割とウトウトしてたりもして、気がつけば髪は切られており、ぼやけた視界が徐々に鮮明になり、鏡に映った自分が映し出される

目の前には小学校6年生、地元のスポーツ少年団に加入していた当時の自分がいた

 

??

 

伸びた分だけと伝えたはず

身長のことだと認識された?

それなら身長が何cm伸びる前ですかって聞いてほしい

勝手に今より40cm伸びる前の姿に戻されても

 

それとも阪神なんば線が延びた分だけと認識された?

阪神なんば線が延びたのは2009年3月なのでギリギリ小学校6年生の時期とも重なる

いや阪神なんば線が延びた分だけ髪切ってくださいってなに?どういうこと?

 

そこで重大なことに気付く

「前髪重ためで」

これをどこの美容院に行っても伝えているのであるが、今回は酔っていて伝えていなかった

結果として、おでんツンツン男ならぬ前髪スカスカ男になってしまい、スポーツ少年団所属のスポーツ刈りみたいな情けない髪型になってしまったのである

 

つくづく美容師という仕事は大変だと思う

正直あまり高給取りではないと思われるのであるが、こうやって人の人生に大きな影響を及ぼしてしまう責任が生じてしまうからである

実際に自分はこの髪型によって週末だれかと飲みたいナ なんて予定が吹き飛んだ

その予定が入らなかったにせよ一人でフラッと近所のバーでも行こうかなと思っていたのも保留にした

なぜならスポーツ少年団に所属しているからである

スポーツ少年団に所属しているということは現役バリバリの小学生なのでバーに行っていいはずがない

スポーツ少年団に所属している学童は「イッツェー イッツェー(1 2 1 2 というランニングのときの掛け声が形骸化し音声情報も崩壊したもの)」という鳴き声とともに荒野を駆け回らなくてはならないのだ

 

しかし疑問なのは、なぜ美容師は前髪をすいてしまうのかということ

そもそも、髪が伸びなければ髪を切りたいという欲求はおそらく生じない

髪を切ることそのものによる快楽というのもほぼ発生しないし、髪を切らなくても生きていくことは可能

あくまでも髪を切るというのは生理的な欲求ではないように思える

 

そうなると、髪を切りたいと思わせる主体は「髪の毛そのもの」のみであるといえる

つまり中央政府である「人格」は、地方自治体である「髪」からの”人口増えすぎて住環境が悪化しているので対策をお願いします”との要請を受けて仕方なく補助金を出して対処しているに過ぎないのである

 

そうなるとより一層不思議になるのが美容師による”髪の毛を必要以上にすく”という行為である

人間の生理的欲求に「髪の毛を切りたい」という項目が含まれない以上、当然ではあるが髪の毛がないと美容師の仕事というのは成立しない

つまり髪の毛というのはマーケットそのものである

しかしそのマーケットそのものを縮小させるがごとく、バッサリと髪の毛を切りにかかる

 

例えば賃金システムが、対・切断毛量で決まるのであればまだわかる

切れば切るほどお金がもらえるし、他社に顧客を奪われないうちに刈り取ることができる

しかし当然そんなわけはないので、極論髪の毛を1本のみ切ったとしても正規料金は発生する

切る髪の毛が少なければ少ないほど、当然すぐに髪の毛は増え、美容院に行く頻度も増えるしそのほうが儲かるのである

 

であればなぜ必要以上に髪をすいてしまうのか

明らかにイケていない髪型にさせることで、本人がストレスを感じ、ハゲ散らかし、余計にマーケットが縮小する恐れさえある

悪循環ではないか

 

 

第17回柏の歴史企画展 幽霊とものゝけ ~柏の怖い絵見に来ませんか~ | 柏市役所

 

8人兄弟の6人目として生まれた柳田國男は、13歳のときに偶然近所のお寺で「間引き絵馬」を目にする

「その図柄は、産褥の女がはちまきを締めて、生まれたばかりの嬰児を押さえつけているという悲惨なものであった。障子にその女の影絵が映り、それには角が生えている。その傍らに地蔵様が立って泣いているというその意味を、私は子供心に理解し、寒いような心になったことを今でも覚えている。」という風に柳田は自著で述べている

 

これは、柳田國男自身が6人目として生まれたことから、家が違えば自分も間引きされる可能性があったという恐怖も加わっており、そこから飢餓を撲滅するため(間引きが起きないように)の民俗学への道を歩むとともに、「間引きされていたかもしれない自分」という自分の存在自体の揺るぎからロマン主義へと走るのである

 

ここで考えられるのは、髪の毛も「すいている」のではなく「間引いている」のではないかということ

美容師にとって髪の毛というものは自身の精神をすり減らすような存在であり、マーケット規模(毛量)も一定程度に抑制しておいたほうが都合がいいのかもしれない

美容師がマーケット規模を抑制する理由については全く思い浮かばない 誰か考えてほしい

もしかすると、そこには「間引き」のような複雑で深刻な世情が絡んでいるのかもしれない

ただ、ひとつ確実なのは、間引きによって私自身も柳田國男と同じようにその恐怖におののき、急にスポーツ少年団に再加入させられたことによる自我の揺らぎを経験しているということである

 

居場所を奪わないでください

中崎町界隈にはライフというスーパーがあり、付近には「ナベル」というオリックスのハズレ外国人みたいなよくわからない名前のスーパーしかないので、食料品の買い物のほとんどをライフで済ませている

 

そんなライフの鶏肉コーナーが最近おかしい

最初はたまたま目的の品が売り切れなだけかと思っていたがそうではないらしい

 

そもそも、金のない弱者に取って鶏肉、特にブラジル産鶏肉は命の源である

牛も豚もとても高くて手が出せないときにも、ブラジル産鶏肉だけはいつも変わらず弱者に微笑みかける

弱者の体はブラジル産鶏肉で形成されているといっても過言ではない

 

そんな私の愛用する(もはや週3~4くらいで食べているので愛用という言葉を使っても問題ない)ブラジル産鶏肉であるが、最近どうも元気がないのである

ブラジル産鶏肉といえば陽気なサンバの血が脈々と受け継がれ、今にも踊りださんとするように容器からムチムチとした肉体を光らせていたものであった

名付けるなら「サンバ肉」とでも言えようか

鶏肉コーナーに近付くだけでサンバの地響きを感じていたものが、最近やけにおとなしい

 

どういうことかと思って近付いた私は絶句する

肉が無残にも切り刻まれているのである

容器のラップを突き破らんとする3次元的な迫力は見る影もなく、「おさまるところにおさまりました。」といった顔の小規模な肉の塊が点在しているのみであった

そして値段を見て腰を抜かす

50円ほど値上がりしているのである

 

たかが50円といってはいけない、これは日用品なのだ

塵も積もればなんとやら、である

そして値上がりは相対的に測るものであり、元々190円くらいでサンバ肉が売られていたのに対し、ブツ切りされたノーサンバ肉は250円を超えていた

 

冷静に考えてほしいのであるが、「お金を払うから肉を切っておいてほしい」という資本家的、貴族的な発想を持った富裕層がブラジル産鶏肉を買うだろうか

ブラジル産鶏肉を買うような人間は、鳥人間コンテストのごとく、水面に落下するかしないかのギリギリのラインでペダルを漕ぎ続け、たまにボーナスという名の追い風が吹くことでふわりと浮き上がり、またクラクラと落下していくような、そんな人間なのである

 

 

 

そんな貧乏人間、それは毎日を生き抜くのも大変であるが、一方で日々を懸命に生きているという意味では生命力に満ち溢れた存在でもある

サンバ肉の生命力に呼応するように我々貧乏人間も必死で踊り続けている

 

そこにやってきた”想像力のない強者”はこう言う

「最初から肉が切ってあった方が食べやすいでしょう?」

 

アホか いらん付加価値をつけるな

むしろ価値を落としている

そしてそのことに気付いていない

 

「おさまるところにおさまりました。」の顔をしているノーサンバ肉のなんと卑しいこと

お前も抵抗しろ 切られるな

 

こういった強者の善意ほど恐ろしいものはない

”街が汚かったら困るでしょう?だから新しく再開発しますね”といってボロボロの飲み屋街を一層する

そりゃあなた達は困らないけれども、弱者は居場所を失う

 

きっとそんな人間は本屋に行き、文量が限界を超えてサッカーゴールのような形をした京極夏彦の文庫本を見て

「これって前編・中編・後編に分けたほうが読みやすいですよね」と言って本を切り刻むようなことをするのだろう

違う 強者の考える”便利”などクソくらえである

京極夏彦の本は、「本は縦長」という世の常識をぶち壊すその圧倒的な違和感と迫力こそ魅力なのだ

 

 

そして切り刻まれたノーサンバ肉を見て強者はこう言う

「これ弱者のためにくっつけたほうが良いのではないですか」

これも恐ろしい

強者があえて汚い雑多な街を作ろうだなんて不可能に決まっている

作為的にそんなものは作れないのである

そして鶏肉をくっつける作業にもまた付加価値をつけて値段はさらに50円上がり、サンバ肉の外見をしただけの魂のない鶏肉が300円で売られることになる

堪忍してください 見逃してください

強者はサンバ肉を語らないでください

 

ああ愛しのサンバ肉

日常を奪われた私はどうしたら良いのでしょうか

こうやって我々の居場所は失われていくのです

 

物語を止める勇気

物語と地名について

 

あら〜いいですね〜ジャケ買い

 

ここ1年くらい、「文学旅行」などという高尚チックで全然高尚ではない旅行なんかを何件か行った

これは、旅行先を決めたあとに、その土地に関する小説や紀行文を読んでから向かうというもの

直接的な映像作品や旅行雑誌を見るのと違い、文章オンリーの本というのはその土地や輪郭や風土のようなものがなんともあやふやに体に入ってくる

その分、事前に独自のイメージを持つこともできるし、現地での体験を通して事前イメージとの差異がわかりやすく浮かび上がる

 

二時間ほど歩いた頃から、あたりの風景は何だか異様に凄くなつて来た。凄愴とでもいふ感じである。それは、もはや、風景でなかつた。風景といふものは、永い年月、いろんな人から眺められ形容せられ、謂はば、人間の眼で舐められて軟化し、人間に飼はれてなついてしまつて、高さ三十五丈の華厳の滝にでも、やつぱり檻の中の猛獣のやうな、人くさい匂ひが幽かに感ぜられる。昔から絵にかかれ歌によまれ俳句に吟ぜられた名所難所には、すべて例外なく、人間の表情が発見せられるものだが、この本州北端の海岸は、てんで、風景にも何も、なつてやしない。点景人物の存在もゆるさない。強ひて、点景人物を置かうとすれば、白いアツシを着たアイヌの老人でも借りて来なければならない。

太宰治津軽」より

 

特に、有名な文学作品というのは土地の風土について著者の感性を通して凄まじい文体を持って発信していることがあり、青森旅行の際に初めてきちんと太宰治を読んだのだが、心底感動してしまった

 

 

そして上記に挙げた「満月と近鉄

これは逆かもしれない

既知の土地に関する本

ただこれも「既知の脳内都市」を登場人物が歩き回るだけかというとそういうわけではなく、あくまでも小説のなかの街というのは実在するものであっても虚構であり、歪められている

なのでやっぱり新しい発見があり、感動がある

 

このように、小説や紀行文における地名というのものは、それが馴染みのある土地であろうがなかろうが、我々に対してなにかしらの意味を残してくれる

 

一方で難しいのが歌詞に登場する地名である

歌詞に土地の詳しい情報を溶け込ませることは、単純に歌の中という量的制限のために難しい

よって歌詞の中の地名に対する解釈は聞く人間の経験に大きく左右される

四国から出たことのない人間が「吉祥寺」という地名を耳にしたところで、「それは善通寺より大きいのですか?宗派は?」となる

 

その分、逆に既知の地名であれば急に親しみが湧くものであり、長野の友人が「これめっちゃいいんだよ」と”国道〇〇号線”(名前忘れた)という曲を聴かせてくれたことがあり、長野を走るその国道に自分はピンとこないものの、この道を日常的に利用する人間には様々な情景が浮かぶんだろうなと羨ましくなったことがある

 

したがって、刺さる人には刺さる「地名」というものは極力多くの人間に刺さってほしいと考えるのは当たり前のことで、ゆえに東京の地名ばっかり歌詞に出てくるのである

 

堪忍してほしい 吉祥寺って金峯山寺より歴史あるんですか?

 

物語を止める勇気

で、この本の評価であるが、非常に面白かった

ネタバレになるので深く書かないけれども、短編集でありながら全てが関連しており、最後に読者は自分の立ち位置がわからなくなってしまい混乱する

 

ここからはやっぱりちょっとネタバレになってしまう

この本は、最後にフィクションとノンフィクションの境目がわからなくなり、終了する

そして解説が挟まれる

普通、解説というものは本の内容についての感想、いわゆる書評というものをツラツラと書くものであるが、この本は違って、本が出版されるまでの物語がここに示されている

簡単にいうと、この本の著者はある女性に本を読んでもらうためにこの短編集を書き上げ、そしてそれを女性に渡す

その女性は西大寺のバーで働いており、たまたまそのバーを訪れたある作家が、その女性から短編集を見せてもらい、内容に驚愕して著者を探し出して出版にこぎつけるというものであった

 

最後の解説もどこまでがノンフィクションかわからないが、なんとも感動的な流れであり、こんな話があるのか・・・とふわふわした気持ちでページをめくっていた

 

すると、残すところあと10ページ程度となったところで突然

【対談】前野ひろみち(著者)×森見登美彦

というわけのわからないコーナーが始まり、

「いやーどうもどうも!」みたいな感じで著者が登場するのである

 

気を失いそうになった

 

(司会)いずれ開通するリニアについて、どう思われます?

(森見)うーん難しいですね。(中略)新幹線でさえ早すぎて怖いことがあるんで、たぶんリニアなんて怖くて乗れない。

(前野)私はもちろん歓迎ですよ。

 

なぜそんなことする!なぜあなたそんなことするあるか!!

 

こっちは現実と虚構のはざまでフワフワと心地よく漂ってたのに急に著者という「現実」が颯爽と登場してぺちゃくちゃと話し、ついには「超電導リニア」の話なんて聞かされる

読者の気持ちを考えていただきたい 厭な気分である

 

森見登美彦は「夜行」において虚構の余韻を非常にうまく操っていたので、こんなことに加担してしまっているのは少し残念な気持ちになった

 

ただ、いくら感想を調べてもこの対談パートにキレているのは自分だけなので、自分の感性がおかしいのかもしれない

対談を含めて1つの作品だとするような意見もいくつかあった

ただ、これで自分が曲がってはいけない 良くないものは良くないのである

本編がよかっただけになぜそんなことをするのかと悲しくなってしまった

 

 

クレヨンしんちゃんにカスカベボーイズという映画があり、劇中に登場する女の子が実はしんのすけが飼っている犬のシロが変身したものではないのかとの説があった

それを裏付けるようないろいろな考察もネット上で展開され、一部のファンの間では盛り上がりを見せていた

しかし監督の水島がブログでこれを真っ向から否定し、憶測を読んだ演出についても作中のミスだと明言したことがあり、悲しくなったことがある

 

地上波で鬼滅の刃を放送したとき、ある登場人物が死んだ直後、その人物が金属バットを振り回して高校野球の世界に転生しているアプリのCMが挟まれたことがあった

当時は腹を抱えて笑ったけれども、今となっては割と深刻な問題であるようにも考えられる

どう考えてもあんなことはやってはいけない

 

どうして余韻を捨ててしまうのだろうか

 

 

高校のとき属していた吹奏楽部にて、よく顧問が「余韻を残せ」と言っていた

それは音の最後の処理をプツっと終わらせるな と、この程度に当時の自分は理解していた

ただ、今になって思う

音の処理をフワリと投げるということは、自分の発した音に対してある程度の無責任さを持ち、その解釈をお客さんに委ねるということなのである

正直アマチュアレベルのコンマ数秒の音の世界でそこまで深く考える必要もないし、当時そういう考えを持っていたとしても音に劇的な違いなんて全く生まれなかったとも思う

でも高校を卒業して人生経験を積んで、改めて余韻というものを考え、そしてあのときの顧問の言葉について考えを巡らすことができた

 

余韻というのはある種の無責任さが必要なのかもしれない

それは発信する側に余裕がないとできないし、また受け取る側への信頼も必要である

ただ、受け取る側への信頼がないからといって、じゃああれこれと最後まで説明してやろう、ということをすると、受け取る側の感性は鈍っていく一方であり、悪循環である

 

せっかく自らの手で作り上げた物語

我が子のような存在であり、自分の手で守り育てていきたいのもわかる

ただ、本当に成長させたいのであれば親元から離し、自主性を持たせるべきなのかもしれない

 

自分も「余計な一言」を言って余韻を壊してしまうタイプなので、自戒も込めて