なおやんの 手記手記 しゅっき〜

なおやんの 手記手記 しゅっき~

痛みに耐えて よく頑張った

ブログタイトル

音威子府

浜頓別出身の親友がいる

友人ではなく親友である

 

「浜頓別出身の親友がいる」と言いたいがために【知人・友人】から【親友】へと昇格したとかではない

 

そもそも親友の定義とは何であろうかと考えることがある

色々あるだろうけど「3時間サシ飲み」ができれば親友だと思う

だから4年くらい会っていない親友もいるし、逆にしょっちゅう会うけれど親友ではない人もたくさんいる

 

「向こうも親友だと思っている」を親友の条件に挙げる人がいるかもしれないが、自分以外は虚構なのでそんな定義は全く意味不明である

こちらが親友だと一方的に捉えれば、それで全く構わない

 

 

 

浜頓別を検索すると神々しい画像が出てくる

あの光に導かれ、空から何か出現するのであろうが、画像にある情報からのみ推測すると、どうせ巨大なハクチョウが現れるに決まっている

 

そんな浜頓別から車で1時間の距離にあるのが「音威子府村」である

「おといねっぷ」と読む

 

 

音威子府村の中心駅となる音威子府駅には、有名な駅そばがある

 

 

大学4回生最後の卒業旅行、友人たちとルスツリゾートへスキーに行き、そのまま自分だけ北海道に残り、真冬の北海道を動き回った

そのときに訪れたのが音威子府駅であり、噂に聞いていた絶品の音威子府そばを駅で食べた

音威子府そばの特徴はその真っ黒な麺の色にある

すすると独特かつ強烈な風味が襲い、真冬の駅の待合室という環境も相まって、感動的とも言える食体験であった

 

この駅そばは、店主がお亡くなりになったこともあり、今では食することができない

更に、音威子府そばの製麺所が廃業となったこともあり、一時は音威子府そば存続の危機に陥っていた

 

しかし、そんな音威子府そばを提供する店が東京にあることを知り、東京へジェフ・ローバーを観に行くついでに浜頓別の親友を誘い、訪れることに

 

 

 


「冷や」=「冷やかけ」だと思い頼むと、ざるそばが出てきてしまった

普通に美味しかったけれども、あの駅そばの記憶にアクセスしたかったので、浜頓別が頼んだ温かいそばをパクる

 

 

こんな感じだった気がする 美味しい

 

 

ここまでは前置き 途中何回書くのをやめようかと思ったことか

前置きが長すぎると本当に文章作成に嫌気が指すので、さっさと本題にいくようにしようと思う

前置きだけ書いて途中で放棄した記事が実はいくつもある

 

 

 

 

さて、問題はここからである

 

そばを食べ終えて会計をしにレジへ

脇に浜頓別を従えた自分は当然のごとくレジの店員へ自慢をする

「彼、浜頓別出身なんすよ」

 

ここで期待していた反応は

 

「浜頓別すか!自分は◯◯出身で!」との店員の嬉しそうな顔や

 

「自分はよくわからないんですけど、、店長〜」(店員が店主を呼ぶ)(店主が現れる)

「ほう君は浜頓別かね 私は店主で◯◯出身だよ 同郷だ 肩を組もう 歌おう 中央に抗おう」との店主の郷土愛に満ちた表情であったり

 

現実は違った

自分以外は虚構であるけれども、それでも勝手に他人の会話を妄想して進めてしまうのはよくないなと改めて感じる

レジで行われたのは、「あ、そうなんですね。店主ですか?東京です。」との5秒のやり取りのみであった

 

上の出来事をもって、食べ終えた時点で星5つだったものを星4つにしようとかは全く思わない

普通に美味しかったし、浜頓別も「こんな味だった気がする」と言ってたので、味に間違いはない

調べると音威子府製麺所から麺を取り寄せているとのネット記事も出てきた(製麺所が廃業してからどうしているのかはわからない)

とにかく、味は十分に「本物」であった

 

しかし店主が東京出身と聞いたときの脱力感はなんだったのだろうかと思う

この文章を店主が目にしたら激怒すると思う

出身地なんて関係あるのか、味が全てだろう、と

違う そうではない 怒らないで

店主の頑張りがどうのこうのではなく私の感性の問題なのです

 

 

 

2年前にセミナーに参加した際に作ったパワーポイントがここで役に立つ

これは観光の文脈での「真正性」についての分類であるが、「真正性」つまり「本物」とはどのようにして人に受け取られるのかといったことが整理されている

 

あくまで観光からの視点なので無理やり当てはめるとそぐわないところもあるけれど、この場合、自分はおそらく①の客観的真正性を求めていた

つまり「音威子府村周辺出身」あるいは「北海道出身」じゃないと、本物とは認めない

これは原理主義的な危険思想である 

日本の地方がこれから経験したこともない急激な人口減少に襲われるなか、このような原理主義の立場を取っていると地方の文化は消滅してしまう

この音威子府そばだって、外からの力がないと存続できなかったかもしれない

 

自分もそこまでの危険思想は持っていないので、①はなくとも、③の実存的真正性があれば・・・くらいに考えていた

これは、店主や店員が個人的に音威子府村に居住経験があるとか、深い交流があるとかである(解釈が正しいかどうかはわからない)

しかし、浜頓別というワードに一切反応しないことから、勝手に「道北に詳しくない」と判断し、実存的真正性においても自分の中で満たしてほしい水準を満たしていないと判断してしまった

 

色々調べればわかるが、こちらの店主は音威子府村をリスペクトし、きちんと現地にも通い、一度駅そばを食べただけの自分の数億倍は「本物」なのである

 

なので、ここでの話は「音威子府そばを食べて美味しかったけど少しがっかりした話」では決してなく、「自分はどういうところに本物性を見出すのか」という話であった

 

 

「本物」の話でいうと最近許せないのが、セクシー女優の入れ乳問題である

セクシー女優の人気ランキングでは、上位に何人もの入れ乳女優が食い込む

入れ乳はもう一目でわかる 「なにわ海の時空間」みたいな形をしている

 

海に浮かぶ構造、かさむ電気代…「なにわの海の時空館」閉鎖10年で維持費7000万円 : 読売新聞

 

乳が本物か偽物かわからないようなら自ら手を挙げて畜生道を歩むべきである、と言ってもいいくらいあからさまに偽物である

 

ただ、怒りの対象は女優には向かない

売れるためには様々な手を使わなければならないので、当然ニーズのあることは取り組む

つまり、許せないのは、入れ乳を積極的に評価する男性諸君である

 

 

ここでも作ったパワポを引用する

 

「地形」というのは非常に本物性が高い

もちろん、戦車の爆撃によって地形が変形した、津波に備えて地面を嵩上げした、など人為的なものはあるが、基本的に地形というのは何百年も変わらずそこに存在する

入れ乳は当然これに反する

ある日目が覚めると急に家の前にあった小高い丘が2,000メートル級の山へと変貌している

こんなフィールドにタモリがやってきてブラタモリしてくれるだろうか

否、タモリは「風土」のある場所にしか来てくれない

「風土」とは、人の営みによって自然かつ必然的に形成されるものであり、紐解くことで逆に地域の歴史や特性を読むことができる

 

 

しかし実際、日本の男性諸君は、風土のない土地を称賛し、セクシー女優ランキングで上位まで押し上げてしまうのである

なんたる文化成熟度の低さであろうか 絶望するしかない

 

プロ野球において、誰しもが薬物によって筋肉増強を行い、画一的なガタイの選手ばかりが揃ったチームなんて応援したいだろうか

各自が生まれ持った能力をもって戦うからこそ面白いのであって、そこに文化が生まれる

 

本物性を追求しすぎることは、原理主義のような思想にもつながるので、ほどほどにしないといけない

しかし、本物性を放棄し、短絡的に結果だけを求めるとどうなるか

多様性や文化が失われるだろうし、これも危険な世界になってしまう

 

ありのまま生きてよいけれど、適度に眼に力を入れて歩きましょうというお話でした

 

 

好奇心について

 

龍飛に着いたッピ

 

よいダジャレだと思うけれど、語尾に「ピ」が着くだけで納沙布岬に着いたような感覚になる

ロシア海軍の気配を感じる

しかし、日露戦争中の日本海海戦では結局バルチック艦隊がこの龍飛岬付近を通ることはなかった

 

 

龍飛岬といえば太宰治津軽」における、龍飛岬についての記述がすごく印象的であった

今まで読んだ紀行文の中では抜群に美しく、心を揺さぶられたのを記憶している

 

ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えてゐるのである。ここは、本州の袋小路だ。読者も銘肌せよ。諸君が北に向つて歩いてゐる時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである。

太宰治津軽」P50

 

 

龍飛岬には太宰の記念碑もある

この文章の感動はなんなのだろうかと龍飛岬にて改めて考える

思うにやはり、「読者も銘肌せよ」という呼びかけではないかと思う

これにより読者は強制的に太宰の見た津軽半島まで送還され、北へ北へと、左右に狭まりゆく海岸線を望みながら歩く羽目になり、最果ての景色をまざまざと連想することになる

これは紀行文だから当然のこととして、太宰は小説においても読者に呼びかけるような表現をすることがある

 

津軽に生れ育ったこと、生家が大地主であったこと、六男坊として育ったこと、この三つが太宰治の生涯と文学を理解する上に、重要であると考える。津軽は本州の最北端で、昔からえぞのくになどと呼ばれ、中央からは文化果つる地とみなされ、方言も標準語と大きく違っている。飢渇と呼ばれる凶作にしばしば見舞われる雪深い酷寒の地であり生活は厳しいが、それだけにロシアの農民をおもわせるような忍耐強さ、強烈なヴァイタリティ、骨太い反骨性、生活からにじみ出た笑い、ユーモアがある。いわゆるわびやさびなどの日本的性格とは違う、縄文時代から続く(太宰の故郷の近くに縄文晩期の東日本文化圏の中心であった精密で重厚な土器、土偶を産する亀ヶ岡遺蹟がある)深層的日本の呪術的習俗や雰囲気が濃密にのとっていて、オシラさまやイタコの信仰から、民謡、民話、そしてネブタ絵、凧絵さらには棟方志功の版画に通ずる原色のヴァイタリティがある。そして一面意外に明るい開放性やハイカラ性もある。長い冬の夜、炉辺で語る津軽ごたくの身ぶり手ぶりで相手に語りかける話体や笑い、ユーモアは太宰文学の大きな特徴になっている(太宰治の文学は、どんな小説でも君よ、あなたよ、読者よと直接作者が呼びかけてくる潜在的二人称の文体で書かれている。この文体に接すると読者は、まるで自分ひとりに話しかけられているような心の秘密を打明けられているような気持になり、太宰に特別の親近感をおぼえる。そして太宰治は自分と同じだ、自分だけが太宰の真の理解者だという同志感を持つ。この独特な話体も津軽ごたくの影響があるとぼくは考える)

奥野健男太宰治 人と文学」

 

まだまだ太宰治にわかなので「潜在的二人称」と言われても全然ピンと来ないのであるが、青森旅行に行ったばかりの自分にとって、太宰治を取り巻く風土的バックグラウンドが記述された奥野氏の文章はなんだか嬉しくなってしまうものであった

(奥野氏の文章は、太宰治「斜陽」の本編あとに挟まれていた)

 


そんな龍飛岬には、爆音で津軽海峡冬景色を流すことができるボタンがある

嘘みたいな巨大な赤ボタンを押すと、信じがたい音量でイントロが流れ出す

そしてイントロが終わるといきなり「ごらんあれが龍飛岬 北のはずれと」と2番の歌詞からスタートする

ここは龍飛岬なのだから当然である

上野行きの夜行列車に乗り込むシーンはカットされ、いきなり青函連絡船の船上なのでなかなか気持ちが追いつかない

 

※一緒に龍飛に行った友人と津軽海峡冬景色替え歌選手権を旅行中ずっとしており、優勝は「ごらんあれが勃起乳首 期待はずれの」でした

 

この津軽海峡冬景色、なぜか坂本冬美の曲だと思いこんでおり、あまりに爆音で流れて面白いので「冬美爆音」の文字とともにSNSにアップしまくっていたら、友人より「石川さゆりやで」とのコメントが来てゾッとした

こういうときに指摘してくれる友人というのは本当に大事にしなくてはいけないと思う

間違ってることは間違ってると 指摘してほしい

危うく津軽海峡冬景色を「坂本姓」の創作物として取り込み、より一層の「サカモティズム(坂本姓という共同体の価値を至上のものとして重視,尊重,宣伝する意識・運動)」に傾倒するところであった

 

この間も「こんなことがあってサァ〜」てな感じで恋バナをツレの会に持ち込んだら5人くらいに「お前が悪い」と袋たたきにあった

普段は意見がわかれるような人々なのにその日だけは一致団結集中砲火

右からも左からも叩かれる田原総一朗みたいで自分を客観的に見て哀れすぎて泣きそうになってしまった

でもボコボコにしてくれる友人というのはめちゃくちゃありがたい

これも叩いてくれないと自分の誤りに気がつかないところであった

 

出る杭は打たれるというけれども、自分の信用している人間の前にはあえて直立不動で出て行き、ボコボコに打ってもらい矯正される作業も必要ではないかと思う

 

もちろん、以下の記事で書いたように恋バナはあまり公衆の面前で大っぴらにすることではないのでここには書かないのだけれど、その議論に関連したことを少し

 

buffaloes24.hatenablog.com

 

 

自分は明らかに恵まれた環境に生まれた

好奇心旺盛で明るい両親のもとで育ち、友人に恵まれ、先輩後輩に恵まれ、職場に恵まれ、周囲のドライバーが危険運転で自分を轢き殺すこともなく、とにかくたまたま恵まれた環境で育ってきた

 

自分は様々なことにわりかし好奇心が湧くけれども、これは周りの環境がそうさせたのであって、自分が特段努力したとかではないと思っている

つまり、当然ながら善し悪しの問題ではない

 

上記を踏まえ、自分は人が「だいたいのことに興味を持つ」と思ってしまっている節がある

 

例えばプロ野球観戦という趣味

オリックスバファローズというチームを応援しています 」と伝えたところで「どこのチーム?」となるだけである

なので、野球観戦というものを様々な要素に分解してみる

 

オリックスは大阪のチームであるが、関西のマスメディアはなぜか兵庫の阪神ばかりを取り上げる」という点を切り取れば、メディアや報道に興味のある人間は食いつくかもしれない

「電鉄の歴史」と絡めれば「鉄道好き」に

「球場グルメ」は「グルメ通」に

「打率や防御率などのデータ」は「数学好き」に

「選手の顔面」は「イケメン好き」に

 

といった風に、要素を分解することで様々な興味へとつなげることができる

 

または一般化・抽象化するという手もある

※「分解」との違いがわかりにくいが、「でかい」「カッコいい」みたいに形容詞で表されるイメージ?

 

縄文土器のことは詳しく知らないが、なんか形がカッコいいし神秘的だから好き」という今の自分はまさに縄文土器を一般化しており、今ある薄く浅い知識でも縄文土器にアクセスすることができる

 

この「分解」と「一般化」を、動詞として「刻む」「擦る」としてみる

※擦るというのは擦ることで対象をぼやかす=一般化・抽象化するイメージ

 

【刻んだり擦ったりすれば、どんな物事でも自分の食べれる形とすることができるので、だいたいの物事は何らかの形で誰しも興味を持つことができるだろう】

このような考えを自分は持っていた

しかしそんなことは完全に誤りであるし、自分も「本当に興味がないし近付きたくもないもの」は多数存在するので、これは一方通行なものの見方であったなと反省をしている

 

冒頭の、友人たちにボコボコにされた話は以下のような内容である

 

「自分の好きなものを相手に『刻んだり』『擦ったり』しながら説明したけれども、あまりにも伝わらないという経験を何度も繰り返したので自分は絶望をした」

 

そりゃ友人たちにボコボコにされるわなといった、驕り満載の思考であった

 

ただ、好奇心の強弱というものは当然ながらあると思う

好奇心が弱い人には、どうしても「伝わるイメージ」にするために、対象物を大きく刻んだり擦ったりすることになる

 


そうなるともはや口に含むこともできない大きさになってしまうのであって、美味しく味わうこともできない

ある程度小さな塊、つまり個人独自の興味にそこそこ強いつながりを持つ「自分の形」にしないと、なかなか食べたいと思う段階にすら至らないのではないか

そして対象物を美味しく食べれたというきっかけがないと、なかなか対象物に接近することができないのではないか

 

そうして、好奇心が強い人間は、より様々なことに興味が湧くシナジー効果が発揮される一方で、逆はなかなか興味の幅が広がらないということになる

もちろん何度でもいうけれども善し悪しの問題ではないので、「本人が」生きる上では全く問題のないことである

ただ、こういう傾向があるのではないか、というだけの話

 

善し悪しではないということを踏まえた上で、自分は好奇心をある程度強く持って生きれたら、とは思っている

上で書いた理論でいくと、何でもかんでも興味を持とうと思うと、対象物を小さくすることが難しく、逆に興味の幅があまり広がらないということになる

 

だから、興味を持ったものはある程度深く勉強してみよう、というのは最近のテーマである

 

生前葬

 

近所の蔦屋書店に行ったら奥田英朗の本が置いてあった

インザプール、空中ブランコ町長選挙の3作はどれも中学生のときに読んだ記憶がある

他にも色々な本を読んだはずだと思って調べたら、記憶違いで、全て荻原浩の本だった

記憶のどこかで奥田英朗荻原浩がごっちゃになっている

 

 

これは奥田英朗の本に出会うもっと前

小学校2年生くらいの時の話

 

隣の家のおばちゃんが犬を飼い始めた

記憶にある時点でもうだいぶ大きな犬だったので、子犬時代は家の中で飼っていたのかもしれない

とにかく、隣の家のおばちゃんが犬を飼い始めたのである

当時犬を飼いたいと思っていた自分は、隣家が犬を飼い始めたというニュースに心躍り、あたかも自分の家に犬がやってきたかのような錯覚に陥るほどであった

さっそくおばちゃんのところへ行き、犬を見せてもらう(この時点でだいぶデカかった)

 

「犬なんていうんですか」

さすがに自分の所有物ではないことはわかっており、おばちゃんが名付けた名前で呼ぶしかないため、当然最初に聞いておくべき質問であった

 

「ぼくちゃん」

 

一瞬耳を疑った

 

「ぼくちゃん?」

「ぼくちゃん。男の子やから。」

 

ほんの3メートルほど隣の家である

少しX座標(場所軸)とY座標(時間軸)がズレていれば、自分もこのおばちゃんの息子として生まれ、「男根太郎」とか名付けられていたかもしれない

名前のせいでクラスメイトに死ぬほど虐められている俺は母親になぜこんな名前をつけたのか問いただす

 

「男の子やから」

 

それ以上でも 以下でもない

 

「ぼくちゃんっていうんですか」

ぼくちゃんはフワフワとした白と茶色の混ざった雑種で、シッポをふりふりしていた

小学校2年生の自分はふと思いつく

 

「女の子やったら、わたしちゃん やったんですか」

 

目の前のおばちゃんは犬の名前をつける際、その犬の雌雄が対応する、人間の男女の一人称を引用するという規則を適用していると考えられ、もし犬がメスであれば、それに対応する「女」の一人称「わたし」が名付けられる、小学校2年生の自分はそのように推論したのである

 

「それはないわ」

 

半笑いでおばちゃんが返答した瞬間に俺の左脳は弾け飛んだ

自分の中の論理的思考というものが壊滅した瞬間である

以降、右脳のみで生きてきたせいで、目尻のシワでしか相手にモノを伝えることができず、右脳のみ重たいため思想まで右に偏り、今必死に内田樹の本などを読んで思想を真ん中か左寄りに持っていこうとしている

一応仕事として大きな括りではコンサルをしているものの、日本人をMECEで分けろと言われても「天皇」とそれ以外としか分け方がわからない

 

ここで「そうね、メスならわたしちゃんだったね」と言ってくれれば、自分の可能性はどれほど開けたことだろうかと思う

ただ、この事件を背負い込んだ今の自分の人生に不満はなく、素晴らしい人間に出会えてきたので、人生に必要な銃撃であったように思う

 

 

 

また、同じくらいの時期の話

家の目の前、今度は道を挟んで10メートル位の距離に駄菓子屋があった

小学生にとって駄菓子屋というのは最高のたまり場であるので、自分の家に友達を招くときはほぼ毎回そこでお菓子を買って店の前でたむろするか、自分の家で友達と菓子パーティーをしていた

 

今でこそ駄菓子は好き勝手買うことができるが、当時は1日100円くらいの範囲内でしかお菓子を買うことができず、限られた予算の中で目一杯お菓子を楽しむために「アタリ付き」のお菓子をよく買っていた

今はどうかわからないけれども、自分が小学生のときのアタリ付き駄菓子は、よく当たっていた

その中でもひときわ当たり率が高かったのが「ヤッターめん」であった

 

1つ10円で売られているベビースターのようなお菓子なのだが、とにかくよく当たる

そして、上の画像の蓋の裏にも「100円」とかいうとんでもない数字が見えているが、10円〜100円の幅で当たりがあった

10円のお菓子で30円とか50円、たまに100円なんていう当たりがそこそこの頻度で出るので、10個くらいまとめ買いすればそのうち3つくらい当たり、換えにいったヤッターめんがまた当たり・・・みたいな現象が起こり、いつまでも楽しめるのであった

当然これが気に食わないのが駄菓子屋の店主のオッサンで、当たりを換えにいくたびあからさまに不愉快な顔をしていた

 

駄菓子屋は店の奥がそのまま住居で、いつも店の奥で「日常」を過ごしているオッサンをいちいち呼び出してお菓子を買う必要があり、正当な買い物をする際にすら少し面倒な顔をして出てくるのに、ヤッターめんの当たりを換えにいくときは

・店に一切お金が落ちない

・商品だけ持って行かれる

・日常を邪魔される

の三重苦で殺人鬼のような顔をして店の奥から出てくる

 

平穏な田舎で育った小学生にとって、テキサスチェーンソーのような足取りで殺気を含んだ目を向けてくるそのオッサンはあまりに刺激的で、「ヤッターめん遊び」は、途中からオッサンに会いに行く肝試しのような様相すら含んできた

 

 

 

そのうち、オッサンも我慢の限界が来たのか「当たり分の値段で他のお菓子持っていけ」と言うようになる

これは奈良県のほんの小さな町の小さな集落のある駄菓子屋でのみ実現した「ヤッターめん本位制」であり、革命が起きようとしていた

しかし自分たちには革命など関係なく、ただテキサスチェーンソーに会いたいという気持ちしかなかったため、頑なに断り、ヤッターめんによる嫌がらせを続けてしまった

 

ある日、駄菓子屋へ行くと、全てが夢であったかのように、ヤッターめんが消滅していた

あんな不愉快なお菓子を置いておくわけにはいかなくなったのであろう

 

小学生の自分たちは、土俵の上に這い上がり、群れになり、大人と「ヤッターめん戦争」に打ち込んでいたのであった

しかしヤッターめんは一瞬にして消滅した

所詮子どもが両手を振り回してぶつかっていったところで、大人はコマツ普通型ブルドーザー「D155AX-8」に颯爽と乗り込み、土俵そのものを1分で平地にすることができる

大人になるということは、コマツの重機に乗ることができるということなのだ

早く大人になりたい、と純粋に思った

 

 

そんな自分の少年時代に彩りを与えてくださった2人が続けて亡くなったということは、ゴールデンウィークに帰省した際にさらっと母親に伝えられた

 

すごく衝撃を受けたし、悲しかった

色んなお礼も言えていない

 

でも、もし生きていたとしてバッタリ出会ったとき、昔の話を語り、あのときは楽しかったですありがとうございました、なんてなかなか言えるものではない

 

こういった想いの多くは、伝えることがなく消えていくものなのだろうなと思う

だから、大事な人が亡くなる前にきちんと気持ちを伝えましょう、と、このようなありふれた答えに落ち着きそうになるが、そうではない

それはやっぱり伝えることが難しいものだと思う

 

そういった気持ちは他人から伝えられることがないので、他人には適当に接し続けて人生を全うすればよいかというともちろんそんなことではなく、伝えられることがないとわかっていても、おそらくこのように思ってくれているのではないか、と希望が持てるように、自分なりに正しく生きるしかないのではないかと思う

 

 

 

冒頭の奥田英朗の「町長選挙」には、人気球団のオーナー「ナベマン」(明らかに巨人のナベツネのことである)が登場する

高齢のため死の恐怖に悩むナベマンは、伊良部医師のアドバイスにより「生前葬」を行うことにする、といったストーリーであったように思う

その生前葬では、日頃ナベマンと親交のある人、逆に対立関係にある人、様々な人が一同に介し、ナベマンへの想いをスピーチでぶつけるのであった

それを聞いたナベマンは穏やかな気持ちになり、いつ死んでも良いと思うようになる

 

本当に自分への言葉が欲しいのであれば、生前葬をするしかないのかもしれない

結婚式よりも生前葬の方がどう考えても面白い

 

受付に向かうと「本日はご愁傷さまです」と頭を下げられ、「屍人の死に装束の色当てクイズがありますので、あちらのカウンターより色付きのサイリウムをお取りください」と案内される

 

式場への登場は、フォークリフトのフォーク部に棺桶を載せ、雑に床へ叩きつけて欲しい

 

「どうしても戒名を書いてほしい人がいます」と、7歳くらいの孫を呼び出し、

卒塔婆に「死ンデレラ」と書いて欲しい

 

 

 

もちろん生前葬なんて夢物語で、することなんてできない

人に愛されていると、確かな実感を持ちつつ、究極的な孤独感を抱きながら生きるしかないのである

 

だから自分を救うため、頑張って人道的に生きようと思う

 

 

 

 

なんとなく好きなデザイン

大都会梅田に住んでいるので常に看板に囲まれた生活をしている

看板または店の装飾というものは、その店の顔でもある

店主が一世一代の思いで出店したような店も多いだろうから、そのデザインというものは我々サラリーマン畜生が三日三晩考えた程度では創造できないような、独創的なものが多い

 

 

たまに行く喫茶店「まりも」

Mの文字をあしらったと思われるアーチ状の土台の上にぽっかりと浮かぶまりも

何度見てもうっとりとしてしまう芸術的なロゴとなっている

まりもは朝7時からやっていて400円くらいでコーヒーとトーストのモーニングがいただけるので非常にありがたいが、喫煙可なのでヤニカスがめちゃくちゃ来る

夏の道東かと思うくらいの副流煙のモヤに咳き込みつつ、美味しいモーニングと読書などを愉しむ時間は、ギリギリ副流煙の苦しさが勝って有意義でもなんでもないのだが、それでも月イチくらいで来てしまう

 

夏の道東

 

あと梅田界隈でイチオシがつばくろ診療所

 

 

つばくろ診療所は心療内科となっており、精神を傾かせることで常連になることが可能だ

ただ、やっとつばくろ診療所へ通うことができる、そういった精神状態になったときにはもうこの看板を美しいと思うような心の余剰は消え失せている

つまり永遠につばくろ診療所の「美しさ」は手に入れることができない

これがつばくろ診療所のパラドックスである

 

他にも好きなデザインはたくさんある

 

 

このような「なんとなく好きなデザイン」というのは心に留めておくと興味の幅が広がる気がしている

 

たとえばつばくろ診療所の絵は、おそらく版画で書かれているように思うが、この看板きっかけで版画の世界に興味を持ったように思う

 

去年東京で観た「東北へのまなざし」展では勝平得之の版画が何点か展示されてあり、その美しさに心を奪われてしまった

その展示会では展示がなかったものの、1934年に制作された「河畔雪景」なんてもう絶品である

 

版画家 勝平得之 | 手づくりの老舗・佐田商店のきりたんぽ

 

4月には葛飾北斎美術館に行き、恥ずかしながら富嶽三十六景の「神奈川沖浪裏」が版画で制作されていることも初めて知った

なんか滝の絵がすごく良かったのでポストカードを買って帰った(「下野黒髪山きりふりの滝」)

 

神奈川沖浪裏

 

下野黒髪山きりふりの滝

 

先ほど貼った「かわせみ学童保育所」に心を惹かれたのは昔よく読んでいた村上康成の絵本と作画がよく似ているからだとあとから気付いた

 

村上康成「この星の上で」

 

そして村上康成の絵を見てみると全然違ってビックリする

看板を撮った時点では、これはもはや村上康成本人の絵に違いない、などと思っていたのだがどこで思い違いをしたのか

村上康成の絵が再び見たく、村上康成美術館に足を運んでみようかと思ったが、今年閉館になったみたいでめっちゃ落ち込んだ

もう少し早くかわせみ学童保育所に出会っていれば

 

 

 

なんとなくシンパシーを感じるイヌのフォルムは、我が故郷四国が想起されるからだと気付く

脱糞中の犬畜生と四国が同じ形だなんて考えたこともなかった

生まれ故郷徳島は幸いイヌの顔面の部分なので、尻尾の佐田岬半島の下のケツの部分にあたる八幡浜とか西予の人間のことは死ぬまで馬鹿にしようと思う

 

中学受験の地理「四国地方」で覚えておきたいこと

 

 

看板とかではないけれど、オシラサマのビジュアルは理由なく鳥肌が立つような感覚がある

 

 

オシラサマについては各家庭で信仰され、あまり外部にその情報が出ないこともあってまだ不明瞭な部分が多いらしい

そういえば東北への興味を持ったのも、なんとなく昔から好きだった太陽の塔岡本太郎という流れであった

民俗学の本はいくつか読んだことがあり、その小難しい内容に投げ出してしまうことも多かったのだが、岡本太郎民俗学は大胆な仮説をぶつけてそれを立証しに現地へ行くというスタイルで読んでいてすごくワクワクする内容であった

中でも東北編のエロとオカルトの世界にすっかり魅了されてしまい、去年から東北のことばかり考えている

岡本太郎の見た日本」は、岡本太郎の記述を引用しつつ、民俗学者赤坂憲雄がそれを補足する形でわかりやすく書かれたものであり、去年読んだ本の中でも3本の指に入る面白さであった

 

 

 

「なんとなく好きなもの」に理由を求めすぎるのはあまり良くないと思うけれども、少し突き詰めてみれば自分の根幹とか、逆にまだ見ぬ世界とか、そんなところに触れられるのかなと少し思った

とりとめがない 何が書きたいのかよくわからない

みんなの好きなデザイン 教えて

 

文章を書くということ

 

飲みの席で上司に「いまチンパンジーみたいな恋をしてるんです」と語ると

「おっ じゃあおさるのジョージと一緒だな」と言われた

こちらから上司に言っといて意味不明ではあるが、なんでそんなことを言われなくてはならないのかと泣きそうになった

 

これが「ジョージのおさる」ならジョージ・オーウェル動物農場に登場するサルのことかと思うが、動物農場におそらくサルは登場しなかったように記憶している

動物農場で1番アホなのはヒツジであるので、自分は「おさるのジョージであり、かつジョージのヒツジである」ということになる

 

羊たち

農場に多数いる動物の1つ。頭が悪く、アルファベットを1文字も覚えることができない。ナポレオン派の何者か(おそらくスクィーラー)によって、スノーボールの演説など、ナポレオンにとって都合の悪い主張がなされている時に「4本脚は尊い。2本足は悪い。」と連呼するように教えられる。
物語終盤ではスクィーラーによって「4本脚は尊いが、2本足はさらに尊い」と連呼するように変えられており、2本足で活動し始めた豚たちを肯定させる役目を担う。

Wikipedia動物農場」より

 

 

 

そういったわけでしばらくバタバタしており記事を書けていなかったのだけれども、書けていない間にも記事になりそうな事象というのはいくつかあり、おおまかなアウトラインやキーワードをメモしていたこともある

 

 

例えば以下のメモ

 

これは広末涼子の「入ってくれてありがとう」の手紙にあまりにも衝撃を受けたという内容である

メモを公開している時点で本文を書く気はない

途中まで書いたけど全然面白くなりそうになかった

 

ざっと内容を書いてみる

 

広末涼子が不倫相手の鳥羽氏へ宛てた交換日記の「入ってくれてありがとう」に衝撃を受けた

・「入る」と表現されるには、鳥羽氏を形成する全てがその瞬間は鳥羽氏の男根に集約されなければならず、鳥羽氏は一時的にではあるが珍棒そのものへと自身を昇華させた

・自分はブログでおそらく20万文字以上の文字を打ち込んでいるが、この一文に勝る文章を1度たりとも生み出していない

・なぜならあくまで所詮他人に公開しているような文章だからである

・恋愛というのは閉じた世界において内向きへの強烈なエネルギーを発するものであり、だからこんなえげつない文章を生み出すことができる

・だからそもそもこういった文章は絶対に公開されてはならない

・鳥貴族の釜飯がグツグツ煮立っているときにフタを開けると異様に怒る友人が何人かいたが、あれは釜飯の蒸気が逃げるのを嫌うのではなく、内向きのエネルギーを逃してしまうような私の人間としてのあり方そのものに警鈴を鳴らしてくれていたのではないか

SNSに恋人の惚気を公開するのは一見蒸気を逃がすような行為に思えるが、顔に針を刺して美しくなるエステと同じで、少し逃がした蒸気のさらにその上から大きくフタをすることで内向きのエネルギーを強化する役目があるのかもしれない

・他人に恋愛相談をされて「さっさと別れなよ」と言ってしまうことがあるが、内向きのエネルギーを全く考慮していない発言だったと自省しなければならない

・なぜなら他人に見えている悩み事などほんの一部の小島で、その下には深く渦巻く瀬戸内のような海が広がっているからだ

・他人の恋愛への進言をそのまま真に受けて別れてしまう人はそもそもすっかり相手が好きではないか、渦の巻き方がわからない人であり、後者は死ぬまで瀬戸内海の景色を見ることができない

・別れた途端に「自分は馬鹿だった」と言う人がいるが、激流にのまれ為す術もなく回転していた自分こそ正常だったわけで、それが終わった途端大衆の論理に合流し、ショックドクトリンのごとくショックに乗じ「正しさ」をもって周囲に振る舞うのは悲しいことである

 

ネトフリで「あいの里」というおっさんとおばはんが欲情し合う最高の恋愛ドキュメンタリーを見ていたこともあり、愛の渦というものは尊いなあと思ったのと、NHKの100分de名著「ショック・ドクトリン」を見て、これも恋愛の終わりと似ているなあと思ったのと、その2点の気付きから構成されている

 

広末の記事も、構想期間は長かったので色々と思い浮かべていたのだけれど、いざ書き始めるともう全然面白くなくて消してしまった

要は、構想期間の長さと内容の面白さなんて全然関係ないということになる

ここでいう面白さはあくまで自分が考える面白さなので、他人から見たら死ぬほどスベっていることもある(スベっていることがほとんど)

 

ではどういったときに自分の考える面白い文章が書けるのかというと、これは「書きたい」という気分が湧くかどうか、となる

ここが非常に悩みどころとなっている

当然、モチベーションというものは作業をするにあたって大事なものではあるが、それでも事前に作成したアウトラインに沿って書いていればなんとかなりそうなものに思える

しかし実際に「書きたいとあまり思えない」気分のときにキーボードをカタカタと打ち込んでいると本当に顔をそむけたくなるどうしようもない文章が生まれてしまう

結局、題材ではなく書き方なのだなと思うのだが、文章をうまく書くコツがどうしてもわからない

 

自分でなんとなく「いけそう」という気分のときにはそれなりの文章が書けるし、もう書く前から「ダメそう」と思うと本当にゴミができあがる

「いけそう」の気分になる条件もよくわからない

ちなみに今日はその気分だから書いている 自分ではうまく書いていると思っている

そして「ダメそう」の日にどうやったらまともな文章を書けるのかがわからない

自分でも不思議なのだが、よい文章を書けるかどうかが”運”のようになっている

 

それでもいくつか「いけそう」の発動条件もわかっていて、これは直近に小説を読んでいるかどうかが大きいことがわかってきた

そしてこれはビジネス本や教養本ではなく、小説でなくてはならない

筒井康隆ばかり読んでいた時期は筒井康隆みたいな文章になっているし、村上春樹ばかり読んでいた時期はそういったふわふわした文章になっている

他の作家の本を読んだとしても、小説の文体というのは美しく、自分もなにかが書けそうな気分になる

 

要するに小説を読むことで瞬間的に文章力を上げ、その熱が冷めないうちに吐き出しているにすぎない

悲しいけれど現時点では恒常的な力ではないということになる

 

 

今年の頭にスキーで野沢温泉へ行ったとき、飯山駅からのバスでたまたま隣に座ったお姉さんとLINEを交換し、しばらくやり取りを続けていたことがあった

その人は20代〜30代くらいに見えたが、おじさん構文を使ってくる希少種で、その文体の独自性に惹かれるようになった

おじさん構文もおじさんが使うから最悪なだけで、これを若い女性が使うと一気に価値が上がる

昔、若い女性のあまりいない業界に綺麗な女性が登場するとすぐに「美人すぎる◯◯」と持ち上げていた気色の悪い時期があったなと思い出す

 

おじさん構文の特徴はとにかく絵文字が多いことである

その女性も常にヤケクソかのごとく絵文字を連発していた

文字よりも絵文字のほうが多かったこともある

 

いま読んでいる「言語の本質」という本では、絵文字が「視覚的アイコン」にあるのに対し、オノマトペは「聴覚的アイコン」であり、「ワンワン」といった音声情報は、イヌの絵文字の一部しか写し取ることができないと書かれてあった

 

掛川花鳥園HPより

ハイイロエボシドリというこの世で1番愛らしい鳥がいるのであるが、「ハイイロエボシドリ」という文字や、その鳴き声のモノマネによってハイイロエボシドリの姿をそのまま相手に伝えることは不可能である

しかし、ハイイロエボシドリの姿をした絵文字を貼り付ければ、文面においてその姿を一瞬で相手に認識させることができる

もはや人類に文章など必要なく、絵文字のみの情報交換の方が優れているのではないかと、おじさん構文の女性とのLINEからそんなことすら考えるようになった

人類の共通言語として今からでも絵文字のみの新言語を確立させるべきであるし(※)、そのような言語であれば文章をうまく書けないなんて悩みから解放されるのかもしれない

 

アイヌ民族のように話し言葉のみの言語は存在するが、書き言葉のみの言語は存在する?

 

はたまた、「あなたの人生の物語」に登場するヘプタポッドBのように、1文字であらゆる事象を相手に伝えるような「表義文字」のような言語が登場するのだろうか

ちなみに「あなたの人生の物語」は最近読み返してやっぱりあまりにも面白かったので2人くらいに貸した

この言語の特性を読み解いたときの鳥肌が立つような感覚は未だに忘れられないし、話自体の構成もすごく作り込まれていて面白い

 

 

ただ、新たな言語の創造に挑戦するか、日本語に苦しむかを迫られると、自分は怠惰な人間なので日本語の渦に死ぬまでもがくのだと思います

 

この渦を乗りこなし、私は村上海賊になれるのだろうか

 

 

 

 

 

 

帰属

人から薦めてもらった本はなるべく読もうと思っている

それが初対面の人だろうと薦めてくれた本はその場で(メルカリとかで)買ってしまう

 

逆の立場で「おすすめの本は?」と人から聞かれたら、真剣な脳内選書が始まるはずなので、他人が薦める本も絶対に面白いはず

 

そして、きちんとその場でメルカリの「購入しました」の画面を見せる

これは”愛を伝える”行為でもある

 

最近薦められた原田マハの「楽園のカンヴァス」が面白いので、今朝もカフェでも行って途中から読むかーと天満界隈を散策する

 

 

道中、居酒屋の前の黒板に目が留まる

この店は1度行ったことがある

 

じっくりと読む

ふむふむ 薄いなあ

薄いなあと思いながらps以降を読む

ふむふむ キツいなあ

本文だけなら薄いで済んだけど、psがキツい

胸が締め付けられるような感覚になる

 

なにを言っているんだお前の文章も薄いし痛いだろと反論されると思う

薄いし痛いのは本当にごもっともだけれども、大きな違いは「これを公共に晒しているかどうか」である

 

この黒板は路地に晒された状態で、大衆に読ませようと思って置かれている

そして読んだ側はダメージを食らう

 

buffaloes24.hatenablog.com

 

「街が臭くなる」は未だに思い出し笑いをするほど人生の活力となっているのだが、こういうのは本当に苦しくなってしまう

 

 

これは近所のお寺の掲示

もう街なかでの主義主張は寺社仏閣しかしてはいけないと取り締まるべきではないか

この掲示板も一瞬「戦争賛美」かと思ってビビったけど多分そういう意図ではないらしい

 

 

路地の道路側へ向けた看板にはメニューしか張り出してはいけない法案

自分がいつか政治家になったらこれを通したいと思う

 

バイデン 350円

実は   570円

AI    230円

 

みたいなメニューが張り出される可能性があるが、もうそこまでして主張したいのであれば放っておけと思う

 

 

さて、なぜこの黒板の文章にこんなに苦しんでいるかというと、自分の街を愛しているからである

要するに自分の街に帰属意識を持っている

だからこの街に住む他の住民に苦しんでほしくない

ただその想いだけ

 

 

お前が旅をする目的ってなに?と友人に聞かれたことがある

少し考え、「神経を広げるため」と答えた

 

旅行に行った土地には少なからず愛着を覚える

それは言い換えると、自分の神経がその土地に行き渡ったような感覚、となる

以後、その街で起こった出来事には関心を持つようになるし、感情を動かされるようになる

「旅」だなんて崇高な言い方はそんなに好きではなくて、別になんの目的もなく「旅行」をするのだけれど、ただこの「神経を広げる」という感覚だけは持っていたいなと思う

 

そうして自分は様々な場所に帰属意識を持つことになる

日本国民としての帰属意識は常に持っているつもりだけれど、様々な地方の帰属意識はまた別の階層として持っていたい

 

友人たちと、自分はどこまでの帰属意識を持っているか?の話になったことがあり、ある友人は「アジア」と答えた

それは素晴らしいことだし、自分もいつかは「アジアの中の坂本」との意識を持ちたいと思う

 

 

patoという有名なブロガー?がいて、日本各地を旅行する記事がよくバズっている

すごく読み応えがあり、才能のある人だなあと思う

ただ、様々な土地を歩いた結果として、方言を「許容する」「受け入れる」だなんて考え方をまだ持っているのだとしたらそれは残念なこと

 

水曜日のダウンタウンがイタコを馬鹿にしたような企画をしていたが、こういうのも無教養が産んでしまう悲しき出来事だなあと

 

 

そういったことをふまえて、どこまでできるかはわからないけど、様々な土地の文化や風土に触れた上で(文化や風土を理解すると書きたいところだけれど、理解することなんて短期滞在ではできないし、簡単に理解するなんて言ってはいけない気がする)、最低限の帰属意識を持つ

理想論だけれど、そんなことができればいいなと思っている

 

 

この黒板に胸を痛めたのは街への帰属意識ゆえかもしれないけれども、この店も地域で生きているお店で、地域の方を元気にしているはず

だから黒板を見て、狭い視点で「これは地域への悪影響だ」なんて思ってはいけないのです

そういったところで自分もめちゃくちゃ考えが浅いし薄いし痛々しいので、きちんと生きていきます

 

まあそんな具合で外を歩くとこういった出会いがあるので、これからも本は外で読もうと思う

 

結局星乃珈琲へ行く



正解

忘れられない出会いというもの

街なかで出会う看板や掲示物はその一過性ゆえ妙に心に引っかかることがある

 

 

妙に心に引っかかる

 

 

右から読むと亭主関白と結婚してしまった可愛そうな女性になる

いたたまれない

最後の「はい」は素直な返事ではなく「諦め」である

 

 

 

中でも最近のダントツベストは天神橋筋商店街で見かけたこちら

 

 

おそらくこの柱に小便を引っ掛ける犬畜生が跡を絶たなかったのだろう

商店街の中には基本的に柱などなく、柱の希少性ゆえ犬もここでするしかないのかもしれない

 

この張り紙のどこに心を惹かれたのか

「ワシも家でしたいワ」なんて微塵も面白くないし、号泣する柴犬には全く目がいかない

 

 

どう考えてもここである

最初見たときは笑いよりも先に衝撃を受けてしまった

 

街が臭くなる

 

あまりにも面白い ここ1年で出会った掲示物で1番面白い

自分だけかもしれない こんなにウケているのは自分だけな気がしてくる

ただ本当に面白い

 

これって「街が臭くなる!」だと絶対ダメだし、「街がクサくなる」でも全然面白くない

また、「街」を「町」としても面白さ50%減だと思う

エリアが固定された”町”と比べて”街”は特定の区域を指さないことが多く、よって割と肯定的で明るいニュアンスで使われがちである

そこに「臭くなる」という救いようのないワードが組み込まれているのが対極主義のようでたまらない

 

吹き出しに入れず少女の頭の上に置くだけの文字の配置

ポップさが一切排除されたフォントなのに赤文字なのも完璧である

なにか1つでも要素が欠けると崩壊するような、奇跡のバランスで構築された名作品だと思う

 

日本語は複雑怪奇ゆえ1つの表現を何通りもの文章で表すことができるが、ここにおける正解は「街が臭くなる」の一択である

その1つしかない正解を導き出すのは本当に難しい

 

 

 

ちょうど一昨日見かけたこの記事のリード文も良かった

この文章における、ラッコがiPhoneを破壊する様を描く副詞としては「徹底的に」が唯一の正解だと思える

徹底的というワードを入れ込んだからこそ、この記事はここまで伸びたのだと思う

 

 

昨日バーに行くと、マスターに「坂本くん、テクノカットにした?」と言われた

テクノカットがなにか咄嗟にわからなかったので隣の人に聞くと、クラフトワークの写真をスマホで見せられて泣いてしまった

 

画像6

 

テクノカットは、もみあげを鋭角に剃り整え、襟足を刈り上げた髪型である。名称は、音楽ジャンルのひとつ「テクノ系」を日本に浸透させたグループ「YMO」のメンバー3人がしていたことにちなむ。

Wikipediaテクノカット

 

 

テクノカットじゃないですと泣きながら弁明した一方で、「テクノカット」という単語、めちゃくちゃ面白くて気に入ってしまった

 

「お前の親父、テクノなんだって?」

 

俺のテクノカットのせいで息子が学校でいじめられているとしたら、めちゃくちゃ可愛そうな反面、笑ってしまう気がする

 

「やべえ 見ろよ テクノ来たよテクノ」

 

授業参観で俺が教室に入るやいなや息子の周辺がざわつく

うつむく息子

ただ息子も「これが1番面白いから正解だ」と思っているのかもしれない

だから明くる年もテクノカットで俺は教室のドアを開ける

 

「やべえまた来たよ トンプー ほら トンプー 来やがった」

 

テクノ以上の正解を見せつけられ、子どもの想像力の豊かさに俺は唖然とする

息子を私立に入れてよかった と そのとき思った

 

 


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