なおやんの 手記手記 しゅっき〜

なおやんの 手記手記 しゅっき~

痛みに耐えて よく頑張った

ブログタイトル

「ルポ西成」を読んで

ジュンク堂が推すので

先週は金土日と友人が家に来た

そのおかげもあって今は部屋が片付いている

家に人を呼ぶことは最低限の環境維持に必要だなーとしみじみと思う

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二階幹事長と絡みのある友人なので床に寝かせた 親中派は敵

 

さて金土と割と酒を飲んだので日曜はのんびり過ごそうと思い、友人と中崎町ランチをしたあとはジュンク堂に寄って本でも買って解散することに

 

この梅田のジュンク堂はめちゃくちゃデカくて、おおよそ欲しい本は手に入ってしまうのだが、1階の1番目につくところに整然と並べられていたのが「ルポ西成」であった

 

ルポ西成 七十八日間ドヤ街生活

ルポ西成 七十八日間ドヤ街生活

 

 

1〜2ヶ月くらい前から何度か書店で見たことがあり、少し興味があった

自分自身もよく金をケチって会社帰り西成に泊まっていたし、宿泊名簿を書く必要が一切なく、5秒でチェックイン可能な「ドヤ宿」にも泊まったことがある

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ここは本当に死ぬかと思った 

朝にはおそらく日雇いの労働者が大量に斡旋センターみたいなところに集っており、一体これから彼らはどういう仕事をするのだろうかと気になったこともある

なので西成の実態というものに興味がないわけではなかったけど、わざわざ買うほどもないかと毎回スルーしていた

そしてその日もスルーして、文庫本を見に2階へ

 

驚いたことに2階にも「ルポ西成」がズラリと並べられていた

押しに弱すぎる人間なので、気がつけば手に取りレジに足が向かっていた

先日もウォーターサーバーを営業されて申し込んでしまって、本体が届く4日前に正気に戻り慌ててキャンセルしたことがある

このときは正気に戻る前にレジで買ってしまっていた

本にクーリングオフは適用されない

 

感想

その日のうちに読み終えた

スラリとした文章で読みやすく、誰でも1日あれば読み終えることができると思う

 

結論から言うとこの本はゴミ箱に捨てるつもりである

今すぐ捨てたい

捨てたあとはゴミ収集車に俺も乗せてもらい、舞洲工場でくたばる瞬間を見届けたい

 

なぜまだ捨てれないかというと、この感想を書くのに用いらざるを得ないからである

 

 

 

さて、この本を論じるにあたり触れておきたいネット記事がある

去年炎上した、ホームレスに関する記事である 

cakes.mu

 

これに対する批判は

・ホームレスは自分とは切り離された存在として見ている

・自分の枠組みの中に勝手にホームレスを取り込み、ストーリー化している

 

この2点が多かったように思う

要は、ホームレスは自分とは住んでいる世界が違う人間だと扱い、そしてホームレスとなった過程も考慮せずに自分の視点からホームレスを「すごい生き物」みたいに捉えているのが問題となっていた

 

正直自分は最初読んだとき、

とはいえ、私たちはおじさんたちのような路上生活をしようとは思っていないし、現在のテクノロジーに囲まれた生活を続けていきたいと思っている。

の一文だけは、んん?となったものの、あとはそんなに違和感なく読んでしまったので、この文章の中に隠された様々な問題点に気付くことはできなかった

なので、当時は自分も無意識にこのような捉え方をしているのかもしれないと自戒の意味も込めて、色々な批判記事に目を通していた

 

 

ドイツの哲学者カントは

「人を単に手段として扱うことなく、常に目的として扱え」との”人格主義”を説いており(最近哲学部の人間と遊ぶことが多いのでまた詳しく教えてねん)、この炎上記事はまさにホームレスという他者を、記事を書くための手段として落とし込んでしまったのではないかと思ってしまう

ちなみに人を目的として扱うというのは、現代倫理学において「その人の意思を尊重すること」と解釈されているらしい 知らんけど

 

さてこの記事に対して牙を向いた様々な人たち

そんな人間がこの「ルポ西成」を読んだら卒倒するんじゃないかと思う

 

 

まずこの本がどういう本かをさらっておく

筑波大学に7年通ってしまい就活にも当然失敗した筆者は、大学卒業後裏モノ系ライターに

新宿のホームレスののびのびとした生き方に感銘を受け、ホームレスに関する卒業論文を書いていた筆者は、「将来このようなおじさんになったら自分はどう生きるのか 廃人のように死ぬのかそれとも開き直って明るく生きるのか」を常に考えていたところ、出版社から「じゃあ西成に行ってみたら?」と言われ、潜入取材をすることに

そして西成で実際に過ごした78日間を綴ったのがこの本である

 

その78日間で筆者はドカタの仕事やドヤ宿の清掃の仕事などをこなすのであるが、困ったことに筆者は西成の人間を終始見下してしまうのである

本当に容赦なく、こき下ろす

 

以下、いくつか書いてみる

 

・路上での飲み会で出会った歌丸そっくりの老人について

歌丸にはプライドというものがない。前科についても「やっちまったんです、へへへ」という感じでまるで人ごとのように話す。それは自分の犯した過ちを包み隠さずに人に話すという罪の意識ゆえの行為ではなく、ただ捕まって刑期を終えて出てきたという事実のみを並べ、他に意味を含まない話し方だ。

生活保護に関しても肝臓が悪いから福祉で食べさせてもらえばいい、というような単純な気持ちで、少しでも良くなって社会復帰しようという意志はまるで感じられない。犯した罪を尋ねると、さらりと「空き巣ですわ」と答えた。歌丸には窃盗という罪がとてもお似合いだ。

 

39ページ、割と序盤にこの文章が出てくる

もうこの時点で読むのをやめてもよかった

明らかに倫理的にまともな人間が書くような文章ではない

大学に7年通った落ちこぼれが立派に他人観察をし、相手の背景も一切無視して自分視点のみで相手をこき下ろす

いきなり先制パンチを食らわされた

 

 

・ドカタ現場で先輩に仕事を頼むシーン

「はい。知識も経験も自分にはなにもないですが、できることからやっていこうと思いますのでご迷惑おかけしますが色々教えてください!」

ヤクザや前科者扱いをされ、なぜか罪の意識が芽生えつつあった私。自分はどうしようもない人間なのだから力を抜くことなんて許されない。そう思うと頭を下げてお願いすることに何の抵抗も抱かなくなった。相手も同じように一生飯場暮らしのお先真っ暗人間ではあるが、土下座だってできてしまいそうだ。

飯場=土木工事や鉱山の現場にある、労働者の合宿所

 

ここで筆者のプライドが垣間見え始める

どんな仕事であれ、職場での経験年数が多い者に、少ない者が頭を下げるというのは当然のことである

あえてこのような書き方をしているところに、根本の人間としての価値が自分のほうが上だという意識が見えてくる

 

 

・自分の仕事を明かすシーン

休憩時間、坂本さんとコーヒーを飲んでいると、「萌、お前なんでこんなところにおるんや?」と改めて聞かれた。たしかに先日大学を卒業した若者が、意味もなくここにいるとはにわかに信じがたいだろう。

「じつは、私は普段ライターをしておりまして。西成の本を一冊書くことになり、ここに来ているんです」

言ってしまった。嘘をつき続けるのも色々と辻褄が合わなくなりしんどいということもあったが、紛れもなく自己顕示欲から出た発言であった。自分は人から評価されるような人間ではないという自覚はあるが、ここにいる人たちとは違うという思いも根底にあったようだ。

 一旦ここで本を投げた 筆者化け物やんこいつ

その前にも工事現場で自分は筑波大学出身だと発言してしまうシーンがあり、キショ・・・となったあとのこれなのでキレてしまった

変に分厚い本なのでウラウラと汚い弧を描いて飛んでいったのがまた癪に障る

この文章が出た時点でそのあと読めば読むほど胸糞が悪くなるだろうなというのは予想できていたが、こうなったら読むしかないと腹をくくる

 

 

その後も色んな人に対する悪口が出てくるが、東のおっさんに対する悪口は特にひどい

ちょっと面白いくらいボロカスに書かれている

 

腰を曲げながらトン袋を引きずり、ヒイヒイ言っている東のおっさんや福田のおっさんを見ていると、インドのカルカッタで裸足同然のサンダルで街を駆け回る車引きを思い出した。おっさんも車引きも、死ぬまでその仕事しか与えられることはないだろう

東のおっさんが木材を積むために、高さ二メートルはあるだろうコンテナをよじ登っている。すると足を滑らせ転落し、そのままアスファルトに腰を打ち付けた。思わず駆け寄り東のおっさんを休ませようとする。

「いいんや、邪魔するな!お前みたいな素人はあっち行け!」

たしかに私は残酷なことをしたと後で思った。この仕事を奪ってしまえば、東のおっさんの存在価値は本当に無くなってしまうのである。

 

気が遠くなるほど長かった飯場がついに今日で終わる。正直いって嬉しさしかない。名残惜しいなんてひとつも思わない。こんなところで一生暮らすなんて考えると人間辞めたくなってくる。きっと三ヶ月くらいで自殺すると思う。

東のおっさんなどは一体なんのために生きているというのか?「もうボケてるんだからほっとけよ」と周りには相手にされず、ひたすら廃材をトン袋に詰める日々。もちろん貯金もなければ家族もいない。飯場に戻ると缶ビールを三本ほど買い、独りで美味そうに飲んでいるが、そんな生活の何が楽しいというのか・・・。そんなことを考えながらバンに乗っていたところであることに気が付く。

「なんのために生きるのか?」と私たちはよく考えるが、別に何かのために生きなきゃいけないなんて一体誰が決めた?東のおっさんのように汗かいて疲れて飯食って酒飲んで寝る、ただ生きているという生活こそ本来の動物の姿である。

ただそんなことを言っても、やはり「社会の約に立たない人間には存在価値がない」という人間的な考えは根底にあり、自分はこんな生活こりごりだと思うしかないのであった。

 

お前ごときが他人の人生の価値なんてなぜ決められるのかと本当に胸糞が悪くなってくる

カントに殺されてくれ

 

そして本はこのような文章で締めくくられる

 

西成には、西成の男たちにしか見ることのできない境地というものがあるのだと、私は感じる。自分を捨ててしまうといった感情だ。自暴自棄といえばそれまでだが、彼らは自らのその”どうしようもない運命”を受け入れながら生きている。

一年半前、私が初めて見た西成という街の印象は”楽園”であった。たしかに行き場を失った人々にとっては紛れもない楽園かもしれない。しかし彼らにとってはそうでも、私にとっては違う。私にはまだ行かなくてはならない場所、やらなければいけないことが山ほどある。

 

深いため息をつく

去年の年末、京極夏彦の「厭な小説」という本を読んだ

それより厭な本であった 本当に厭な気分になった

 

抑えきれない自己顕示欲と、西成の人間への差別感情

そしてルポなんて大層なタイトルをつけながら、筆者がこんな人間性なので当然書くことが薄い

面白人間博覧会みたいな本になっており、そしてその人間をけちょんけちょんにする

これはフィクションであればそこそこ笑える本かもしれないが、残念ながら実在する人間なので笑えるわけがない

 

まあ、この本にも良い点はあり、西成の実態や生活保護受給者から金を中抜きする悪質ビジネス等について知ることができるのは学びになるかもしれない

しかし残念ながらその正の面を大きく凌駕する負の側面がある

散々書いたが、西成という街、そして生活困窮者への差別感情である

文中では生活保護受給者についても、「国民の税金で生かしてもらっている」等の否定的なことを書いている

アホな読者はこれを読むことでそのままあいりん地区居住者への差別感情や生活保護受給者への反感を持つのではないか

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この前の長崎出張にこの本持っていくべきだったな〜(諫早BTにて)

 

さてこの本、現在ネット上で割と高い評価を受けている

生活困窮者に対し、自分とは違う世界の住人だと一線を引き、その生活ぶりを面白おかしく書いた本が一般ウケされてしまうならこの国は終わり

どうしてなんの違和感もなくこの本が読めてしまうのか 俺が偽善者なのだろうか

こんな本をズラリと並べたジュンク堂も恥を知れと思ってしまう

 

この記事に用いた引用、当然その前後の文脈が抜け落ちているので、本当は違った意図があったのかもしれない(自分はわからなかったけど)

もし興味があるなら読んでみてもいいかもしれない

こんな感情になっているのはもしかしたら自分だけかもしれないし、なにかを読み飛ばしているかもしれないので

 

ただ、自分から誰かにこの本を貸すことはできません 5分後に捨てるので

 

引っ越してみてびっくりしたことでもあるけど、大阪って燃えるゴミと燃えないゴミの区分が曖昧なので、せっかくやし瓶の黒霧島と一緒にゴミに出してみようと思います

 

アップル製品の生き様はダサい

Mac

去年の4月くらいかな

これはいよいよコロナが長期戦になるかも、くらいのときにテレワーク用も兼ねてパソコンを購入しようと思い立った

現状維持バイアスの塊の俺はこのときも当然Windows製品を選ぶべきだったのだが、とにもかくにもコロナ禍真っ只中で娯楽がなく、せめてもの暇つぶしにとMacに手を出してしまった

 

ロクに下調べもせず、金をケチってちょっと古い型番を購入

届いたMacを見て驚いた

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右下のシールにピンと来たら谷町ユーザー

 

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あれ?コントロールキーは?

と思って探すとシフトの上にある

いやいやコピペするときここに小指持ってきてCとかVとか押すの面倒すぎるやろとキレていると、どうやら1番下の列の左から3つ目のキー「command」がコントロールキーの役目を果たすらしい

 

小指ですらなかった 親指でここ押すらしい

 

 

え キショない?笑 キショ笑 

概念覆したかったん?笑 キショ笑

 

もちろんそんなキショい指遣いをするわけではなく、左下の「caps」を「control」キーの役目を果たすように設定をしたが、俺のMacポンコツなのか、この方法でコピペできるときとできないときがあって悶絶する

結局確実にコピペするには親指コピペを使わざるを得ないので、気色の悪い指遣いに移行せざるを得なくなった

 

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もうさ、こんなメニューも下でええやんって思う

どうにかしてWindowsと違うことをしたいっていう歪んだ承認欲求が見え見え

気色悪いねん

 

あとWindowsでは、最大化したウィンドウの上のとこドラッグするとシュッとサイズが小さくなってくれるけど、マックは最大化されたままのサイズのウィンドウが画面上でユラユラと動くだけ

邪魔やねんどけや 承認欲求デカすぎてウィンドウ閉じられへんのか

これもWindowsを使ったあとだとめちゃくちゃイライラしてしまう動作になってしまう

 

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最小化ボタンが左上なのも癪に障る(Windowsは右上)

 

 

モノづくりにおいて、既存の概念を壊すのは非常に大事なことであるけれども、ユーザーの利便性を考えたときに、最低限の機能は既存のモノと規格を合わせておいてくれと思ってしまう

世の中の生き辛さを叫ぶロックバンドが人の心を震わせるのは、彼らが最低限の音楽性を保ったまま叫べているからである

ギターのチューニングが合っていないバンドがなにを叫ぼうが、黙って働けボケと言われてしまうのが御の字なのである

 

 

しかし、まさか今自分の悪口が書かれてるとは思わず健気に稼働するマッくん(俺のMacの名前)を触っていると、少し愛おしくなってしまう

そう、Macにも良い点はいっぱいあるのである

それについては書くのが面倒なので端折るけど、Macを買わない方がいいなんてそんなことは決して言わない

こちら側からMacに歩み寄る姿勢を見せれれば、きっとMacは良い相棒になってくれるはずである知らんけど

 

iPhone

大学3回生のとき、当時Androidを使っていたが、ポケットに携帯が入っていたのを忘れて瀬戸内海に飛び込んだのがiPhoneとの出会いのきっかけ

 

乗り換えてみると、これがめちゃくちゃ使いやすい

なので、iPhoneに関して大きな不満はないけど、1点だけダサくて嫌なところがある

 

それは、残り1%でのイキり具合

 

俺はまだiPhone8なんかを使ってて、もうバッテリーの消耗ヤバすぎて1分で1%くらい減るんやけど、ついに残り1%になったとき、iPhoneは驚異の底力を見せるのである

 

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わかりやすく極端にグラフを書くとこんな感じになる

もうとにかく残り1%からの粘り具合が凄まじいのである

 

iPhoneを買いたての頃の俺は、この底力に感動していた

この粘り強さを引き起こすiPhoneの精神性は人間生活においても何らかの示唆に富んでいるとすら思えた

知らぬ間に残り1%になっていて、ヤバい!と思っても、そこから意外と調べ物もできるし最低限手に入れないといけない情報は手に入るのでいつも泣きながらジョブズにお礼を言っていた

 

 

しかしもうiPhoneと付き合って5年になる

もうこちらも感動を覚えなくなった

いやそれだけではなく、残り1%の底力がイタく思えてきた

イタいなぁと思うのは、その1%での踏ん張りではなく、ついに0%となり電源が切れたあとの挙動

0%になった状態で充電コードを差し込んでも、バッテリーがもう頑張りすぎてしまったのか、5分くらい起動しないのである

 

そのサマは、俺まだまだいけるっすよ!と2次会で飲み倒して、3次会で要介護者認定を受けるイキりを想起させる アイタタタタ

 

しかし、2次会で飲みすぎて3次会で急に骨密度下がって立てなくなる奴、これもなんとも愛おしい

自分にも経験がないわけじゃないし、こういう生き様は明らかにダサいけれどもなんとも人間味があっていいんじゃないかと思う

 

なので、iPhoneは好きだし、これからも使い続けると思う

 

 

 

 

ただ、アップル製品の所持を通して他人より優位に立っていると思っている人間だけは、愛おしくもなくただただダサいので、あんまり関わりたくないです!

 

旅番組との向き合い方

子供の頃好きだった旅番組

昔から当然旅番組なんてものは無数に存在していたが、その中でも、場所的・時間的に連続性を持った番組というものは少なかった

 

この連続性とはどういうことか

 

旅番組は通常、放送ごとに観光地へと出向いて美味しいものを食べ名所を訪ねるもので、その次の放送は別の観光地が特集されることがほとんどである

旅先へロケする人間が毎週替わるような番組も多い

 

そんな中たまに、毎週同じ人間が登場し、「先週の続き」のような形で旅先から帰ることなくひたすらに旅を進めていくような番組がある

2008年から始まった「ロケみつ」の”ブログ旅”はその1つであった

これは稲垣早希という女芸人がエヴァのアスカのコスプレをして旅をするもので、逐次投稿するブログに対するコメント数をもとに、お金を獲得し、それを資金に各地のチェックポイントを周るというものであった

当然、彼女は他の仕事もあるので本当は大阪に何回も帰っているのだが、それが見えないようにうまいこと繋げられていたので、本当にずっと旅をしているような感覚を味わえていた

 

この番組の1番面白いところは、ブログのコメント数をお金に換える際に、サイコロを振り、その出目により倍率が変わるところにあった

最初は1が×0.1円、2〜5が×1円、6が×10円であったが、

確か途中から1が全額没収、2が×0.1円、3〜5が×1円、6が×10円とかいうとんでもない過酷ルールになった

 

こうなると1が出て全額没収になる方がどう考えても面白いと番組側が気付いてしまい、早希ちゃんは狂ったように1を出してしょっちゅう無一文になるようになる

 

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特に祖谷渓で1を出して所持金0円になったときはさすがに笑ってしまった

祖谷渓で所持金0円は俺なら確実に発狂するし谷へ飛び込むかもしれない

 

頑張って欲しい反面、どう考えても無一文になった方が面白いというジレンマを抱えさせられた視聴者の中には、初めて自らの嗜虐性のようなものを感じた人もいたかもしれない

俺もその1人であった

 

その後も、ブログのコメント欄に「やらせじゃないか」みたいな声が溢れ出そうが、彼女はひたむきに1を出し続けた

もう次回予告の時点で金がない女の顔をしているので、絶対次週1を出すとわかってるのにいざ本当に出すとひっくり返って笑わされる

 

そして当時中学生で当然どこにも旅行へ行けなかった俺には、その番組こそが外の世界を見せてくれるレンズとなったのである

今思い出しても素晴らしい番組であったと思う

 

正月の体験

さて、今年の正月はコロナの感染拡大により本当になにもできなかった

本当になにもできないのに11連休ももらったので本当に本当になにをしようかと迷った

しかし結局家の周辺でできることなんて限られてるので、ぼーっとテレビを見ていたわけである

 

画面の向こうでは、お正月のお出かけ番組のような感じで、有吉とそのほかの芸人で旅行ロケをしていた

有吉一行が向かっていたのは長崎県の島原の方であり、城下町を散策したあと、一行はある駅へと向かうため、列車に乗り込んだ

それは「大三東駅(おおみさきえき)」という、日本で最も海に近いといわれる駅であり、俺がかねてから行きたいとずっと思っていた駅であった

 

このとき俺の中に迷いが生じた

おそらくこれは見ない方がいいのでは?

しかしなぜそんなことを思うのか、そのときは一瞬で答えを出すことができず、結局ズルズルと画面を見続けてしまっていた

 

一行は列車に揺られ、大三東駅

ちなみに写真ではこんな感じである

 

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「海の見える駅」より(https://seaside-station.com/station/ohmisaki/

こんな最高な駅があるか!と思い、絶対いつか行くと心に決めていた

 

さて、一行はついに大三東駅へと着き、列車から降りる

より多くの情報を与えようと、広角カメラにより駅周辺の景色が映し出される

 

んん? 違和感がある

 

なんか

めちゃくちゃ家あるな??

 

そのカメラは、駅の海側とは反対方向の景色も捉えてしまっていた

そこには、普通の一軒家が立ち並んでいた どこにでもあるような街であった

 

 

あ、そんな感じなんや・・・ と落胆した

落胆をしたのである

なにに対して?住宅が立ち並んでいてはいけないのか?何の文句があるのか?

 

俺はおそらく、無意識にこの駅に対する幻想を過剰に膨らませていたのだと思う

こんな美しい景色が広がる駅は、きっと周りになにもないような場所にあり、そこを海風が心地よく通り抜けてゆく

 

そんな景色を勝手に思い浮かべていた

 

そして端的に言うと、がっかりしてしまった

 

当然、海側を見れば美しい景色が広がっており、なにひとつ期待値を下げてくる要素などない

しかし、不意に映った住宅地、そんなどうでも良いものが妙に引っかかってしまったのである

 

正月はなんせ暇だったので、なぜこんな気分になってしまったのかを、ぼーっと考えていた

 

おそらく4つの要因があると結論づけた

 

①観光地における情報の閾値

簡単にいうと「ネタバレ」である

俺は大三東駅に行こうとしていた

その周辺の街を観光しようとも、周辺のスポットを巡ろうとも思わず、漠然と「この駅に行きたい」との想いを抱いていた

つまり、目的地としては”大三東駅のみ”ということになる

そうなったとき、大三東駅に関して与えられた情報がある一定のラインを超えてしまったら、「知りすぎてしまった」と感じるのである

 

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この情報量に関しては、訪れたいと思う場所が例えば街全体を指す場合や、どこかを起点に周辺を巡るような観光プランを考えていれば、情報への許容量も大きくなると考えられる(閾値が右へ移動する)

しかし、本当にある1地点「そこだけ」を目的にしていると、その閾値は左へとずれ、ささいな情報でネタバレ感覚に陥る可能性がある

 

もちろん、訪れたい対象地域やスポットがある場合には、事前の情報収集も必要となるため、ある程度は嫌でも情報が入ってくる

ただ、一定の情報は満足のいくプラン作りには欠かせないし、多くの人間がこの情報収集に用いるのは、知り合いからの直接の情報、SNSやネット記事、そして雑誌になると思う

そして、このような写真や文章での情報程度では閾値には届かないというのが自説である

それらはあくまで一部を切り取ったものであり、連続性もない

 

しかし、これが今回の番組のように、「映像」となると、吸収してしまう情報量が急に跳ね上がる感覚に陥る

俺もこのロケを5分程度見ただけで、もう大三東駅の全てを知ってしまったような気になった

列車を降りてから海が見えるホームに歩いていくまでの動線、そして周りの景色、過ぎ去る列車の姿、そういったものが全て連続的な情報として脳内に入ってきてしまい、閾値を完全に超えてしまった

 

これに関しては大三東駅の景色自体へのがっかりではなく、知りすぎてしまったことへのがっかりとなる

 

②勝手な事前期待との照合

顧客満足度は、事前期待と、実績評価との比較により決定されるといわれている

 

旅行において、自分が行きたいと思っている場所に対しては既になんらかの事前期待を持っていることが多く、今回も大三東駅に対してはしっかりと事前期待を持ってしまっていた

そして、今回番組でたまたま行きたい場所リストのうちの1つが取り上げられ、テレビの画面にでかでかと映し出された

 

このときなにが起こってしまったのか

 

”事前期待と実績評価との照合”を無意識にやってしまったのだと思う

この記事の上の方で、大三東駅に対して「思っていたのと違っていた」的なことを書いたのがその部分にあたる

 

観光行動は、景色を見る、温泉に入る、美味しいごはんを食べる等々、様々な行動の集合体であるが、この中で「自宅にいながら」事前期待と実績評価の照合が可能なのは「景色」などの視覚的要素となる

当然、実際現地に足を運んだわけではないので、視覚的要素も実績評価は不可能なのであるが、映像を通して得ることができる情報量が莫大であるゆえに、それが可能になったと錯覚する

 

そして「景色を売りにした」大三東駅は、事前期待との照合のターゲットとされ、勝手にがっかり認定されてしまったのである

 

”行きたいと思っていた観光地”の”視覚的情報”というものは、勝手な実績評価を生む可能性があるので注意しなければいけない

 

③他の要素で補完されなかった

本来、観光行動においては、ある1つの要素(景色や料理)が期待はずれだとしても、温泉や宿泊施設、また言語化できない空気感や接してくれる人が皆良い人だったとか、そういった他のあらゆる要素で補完されて、景色はいまいちだったけどトータルとしては満足!なんてこともよくある

 

しかし家の中にいる限り、そういった補完は当然行われず、他の要素により評価が覆されることもなかった

 

④知覚矯正が働かなかった

「知覚矯正」とは、簡単にいうと「正当化」である

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観光地を対象とした顧客満足モデルの構築(2017) より

このグラフは、企業の顧客満足に関するものであるが、観光行動になおすと、購買前期待を「事前期待」、購買後客観評価を「観光地での体験価値」、そして主観的評価が「最終的に自分が下した評価」となる

これを見ると、満足度を上げるためには事前期待値を下げればいいかというとそうではなくて、ある程度の事前期待は求められるということがわかる

そして、中央で3つの線が交わる点から右にかけて、購買前期待と購買後客観評価の2つの線に挟まれて伸びる主観的評価

この主観的評価の動きがミソとなる

 

購買前期待が購買後期待を上回ってしまっている状態、本来これは「期待はずれ」と称されるものであるが、人間の心理はそんな簡単なものではない

事前にこれだけ期待したのだから、素晴らしいものに決まっている という「主観的評価の引き上げ」が行われるのである

 

そして、単純な購買行動と違い、観光行動の場合、ここにもう1つの要素が加わるのではないかと思う

それは、その体験自体に払うコストに加え、既にお金や時間をかなりつぎ込んでいるということである

まずその観光地についてウン十分ウン時間と下調べをし、大阪からウン万円払い、ウン時間かけて移動し、やっとこさたどり着いた観光地

どんな寂れた場所でも素晴らしく思えてしまうものである

 

そういった行程を踏まず、実家で寝転びながらなんのコストも払わず擬似的に観光地を訪れただけなのだから、おそらく知覚矯正は一切働いていない

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赤線は知覚矯正が働いていないときの主観的評価のイメージ

旅番組との向き合い方

結局、現地に出向かずに評価をするなんて出来っこない

しかし、上に書いたように、無意識的に評価されてしまうことがあるのもまた事実である

 

さてそうなると、世の中の旅番組を純粋に楽しめなくなってしまうのではないか

なぜ俺は昔、あんなにブログ旅を楽しく見ていたのか

それはおそらく、当時中学生の自分には絶対に行くことができない場所を旅してくれていたからであったと思う

”アフリカの子どもにカメラを向けると満面の笑みで応えてくれるのは、彼らはそのカメラが絶対手に入らないとわかっているからである”となにかの本に書いてあった

時間さえあれば国内ならどこでも行けるようになった今、ブログ旅を再び見返すと情報の閾値超えの恐怖や、無意識に行われる勝手な実績評価に悩まされるのかもしれない

 

しかし、旅番組がもはや旅行意欲を減衰させてしまう媒体かというと決してそんなことはない

事前イメージ・事前期待を持っていない地域に対しては、それが旅行の動機になり得ることは十分に考えられるし、また事前期待を持っていた地域についても、ほんの予習がてらに見てみると余計に行きたくなるに違いない

 

要は受け取り方の問題である

「現地に行かないとなにも評価はできない」との言葉を頭の片隅に置いておくだけで悪霊は退散できるのではないか

今回なぜか大三東駅のことをボロカスに書いてしまったけど、必ず数年のうちに訪れてきちんとそこで五感を働かせ、きちんと評価をするつもりである

 

 

以上、昔は気楽にニコニコと見ていた旅番組について、あれこれと考えてしまった出来事であった

旅番組については、気を張りながらも気楽に、矛盾してるけどもそういう見方をして楽しもうと思います

 

 

ランダムステージの想い出と根室半島との馴れ初め

ランダムステージ

大学で軽音楽部に所属していた

俺が通っていた西の早稲田大学こと同志社大学はとにかく軽音楽が盛んで、細かく分類された多彩な軽音サークルに所属する軽音人口は、1,000人を超すとも言われる

その中でも、西の早稲田の中でも、選りすぐりの、西の早稲田大学の中で選りすぐりの4つの軽音サークルは「4大軽音」と呼ばれていた

何が選りすぐりかわからないけれども、4大なのである

早稲田大学のうちの4大なのだから、日本のカーストでもかなり上位に位置していたように思う

 

しかし優秀すぎる組織を前へと進ませるには、大きなエネルギーが必要であった

それは、ロケットの尻から飛び出す炎のように、進行方向とは完全に逆を向いた”生贄”であった

 

その生贄は4大軽音の各サークルより各学年2人ずつ選ばれるのであった

そして最悪なことに、自分は見事に選ばれてしまった

人生を軽やかに進む車輪から異音がし始めた瞬間である

 

この生贄はなにをさせられるのか

 

 

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毎年11月に行われる学祭のメインステージとなる、”ランダムステージ”を作らされるのである

 

信じられない 業者に頼めよクソ大学

 

雨天に備えて屋根もつける必要があるため、地上10メートルとかで作業をさせられることもある

こんなことを言ってはあれやけど、ドカタをしないために同志社大学に入ったのである

しかし死ぬ気で勉強して滑り込んだ同志社で掴んだものは、最上の女でもなく、圧倒的な知性でもなかった

気がつけば手にはステン両口ラチェットレンチが握られていた

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このステージのすぐ後ろは講堂のある建物となっており、学生が頻繁に出入りする

なので、学祭の半年くらい前からのっそりと建てていたのでは学生の動線の邪魔になってしまう

そんなわけで、学祭の2週間前くらいから急ピッチで建て始めるのである

さて、2週間でこんな立派なステージが完成するだろうか

当然のごとく、ドカタの世界では戦後復興の栄光をまだ引きずっているため、時間不足は果てしない肉体労働により補われる

学祭2週間前からは授業もほとんどサボらされる 本当になにをしに大学に来たのかわからなくなる

  

 

せめてもの、演奏はうまくいった

今こんな細かくタンギングできへんもん

てか俺の周りがうますぎるな

 

 

そうして、朝から晩までドカタ作業、学祭期間中はずっとランダムステージ周辺でタイムキーパーやステージ出演団体の誘導をこなし、どこのブースも巡れないような鬼の2週間が過ぎ去る

 

これを3年続け、やっと最終年度

サークルは3回生で引退となる

寂しい気持ちもあるが、やっと終えることができたのかという安堵感も大きかった

ただ、改めて思うと、なんやかんや得るものも大きかったのではないかと思う

普通に過ごしていれば得ることのできない経験 そして日に日に絆を深めた仲間 

最終年度の学祭最終日、祭りの嵐が去り静寂に包まれたキャンパスにて、後輩から寄せ書きを手渡される

過去、自分達も先輩に送ってきたため、自分も渡されるなんてことはわかりきっていたけども、それでもやっぱり感動してしまう

 

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やっぱり間違っていた

俺はなんという3年間を過ごしてしまったのだろうか

 

 

馬場くんにフルチンをこすりつけられた気が、確かにする

 

ドカタ作業は深夜にまで及ぶので、生贄達は学内のカフェに布団を敷いてそこで寝泊まりするという信じられない生活をさせられるのだが、夜中泥酔した全裸の馬場くんがカフェに現れ、俺は彼の欲情のターゲットとなった

声変わりをしてから初めて裏声の悲鳴が出た

あれからあのカフェに行けなくなった

 

 

この寄せ書きは勉強机に飾ってある

最低の日本語が並んでいるが、それが俺の過ごした3年間であった

俺の生きた証であった

 

 

 

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ランダムステージの撤収は、ステージ出演団体の代表者とともに行うんやけど、一人だけすごいお尻出して作業する人がいて、それ見て吐くほど笑ったのでやっぱりドカタしててよかったかもと思いました

(アカペラサークルのOne Voicesは撤収にすらこなかったのでお尻以下)

 

根室半島

ランダムステージの想い出はどうでもよくて、こちらを書きたかった

 

 

さてサークルを引退し、最後の学祭となる4回生の秋

今年こそ学祭を「客」として満喫しようか とも思った

しかしその一方、もう学祭から離れたかった思いもあった

 

そうなると、日常から離れるには北海道しかない!となぜかそのときはなったので、学祭期間中に友達とともに北海道に行こうと思い立った

 

 

しかし運の悪いことに、学祭期間中だというのに講義しますなんていう教授がいたので、「北海道に行くのでサボります」とちゃんと伝えに行った

「どこに行くんだい」と聞かれたので

 「東の方です」と答えると

「じゃあ根室半島にも行くわけだね?」

「はい、多分」

「では、根室半島を東に進むにつれて、異質なものが見えてくるから、その感想をまとめてくるように」と

 

その感想が出席代わりになるらしい なんとも粋な人だと思った

ちなみに教授は北海道出身なので、それで許された感もあった

 

そして書いたのが以下の文である

今見るとなんとも読みにくい文章だと思うけど、あえてそのまま載せてみる

1行目で教授の名前がバレる 太田原さんやった

 

 

 太田原教授にレポート課題を出された際、「納沙布に近付くにつれ、異質なものが見えてくると思うのでそういったことを書いてきなさい。」と追加の指示をいただいた。いったい根室半島の何が私を驚かせてくれるのか、そういった期待に胸を膨らませ、友人とともに花咲線の列車に乗り込み釧路を出発した。

 釧路を出発しておよそ1時間、車窓からさっそく見慣れないものが目に入ってきた。別寒辺牛湿原である。私は鉄道で旅行をするのが好きで全国各地の路線に乗ったことがあるが、このように湿原の上を走る路線というものは記憶になく、新鮮な景色であった。その後も延々続く裸木、おびただしい数のオオハクチョウの群れ、目を凝らすと時折視界に入るエゾシカ、放牧されている馬など、本州ではまず体験できないような車窓に釘付けになり、気が付けば終点根室駅に到着していた。

 根室駅からはバスに乗り、最終目的地の納沙布岬に到着した。海の方へ近付くと、この日1番の異質なものが目に入った。それは海の向こうにはっきりと見える島であった。貝殻島というこの島は歯舞群島の一部であり、現在ロシアに実行支配されている島である。たった3キロしか離れていない目の前の島が日本の領土ではなくなってしまっているという事実そのものに異様なものを感じ、この光景を異質なものであると感じざるを得なくなった。岬の周辺は、その場所が本土最東端であることを示すような碑よりも、北方領土返還を求める碑や看板の方が目立っており、歯舞群島だけではなくこの納沙布岬自体も確かに異質なものであった。

 このように釧路から納沙布岬までの3時間の道中で様々な光景に出会うことができた。その後は川湯温泉、網走、留辺蘂、札幌、小樽を訪れたがやはりこの根室半島での非日常的な光景が1番目に焼きついている。しばらく根室に行くことはないであろうが、数年後に再訪した際に北方領土はどうなっているのか、また現状大赤字路線の花咲線はまだ存続しているのか、期待を込めて今後も根室半島の動きには目を付けておこうと思う。

 

読みにくいけど、気取った言い回しをせずに、見たものをすっと感想にしているような感じで、今見返すと感慨深い文章

 

その日は納沙布岬に寄って川湯温泉に泊まるというハードスケジュールだったので、朝5時くらいのアホみたいに早い列車に乗り込んだような気がする

 

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列車から見えた厚岸湖が絵みたいに綺麗やった

 

文末には、今後も気が向けば根室半島のことを目にかけときます程度のことを書いてあるが、この次の年から俺は毎年根室半島に通うことになる

 

 

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毎年この空気を吸うために、貴重な夏休みを全投入する

絶対に日常では味わえない「異質」な空気を吸い込みに行くのである

 

 

そして今思い返せば、ここまで根室半島に惚れ込んだのは、事前に宿題が出されていたのも1つの要因じゃないかなと思う

宿題の存在により、アンテナが普段より立ち、より多くのものを吸収し、そしてそれを文章化することで余計に自分の中に印象づけられた気がする

 

この経験を思い返すと、旅行に行く際の事前のちょっとした下準備と、旅行後のアウトプットは大事だなあと思わされる

でもわかっていてもなかなかできないものなので、今後は意識してできたらいいな

どうしてもアウトプットの方はその都度書き出さないといけないので面倒であるが、下準備の方は色んな旅行に使い回せるので、そっちに力を入れてみようかな

 

今年は民俗学かなにかをかじってみて、なにかしらの電波を受信するアンテナを張った状態で旅行に出かけたらどうなるのか、というのを試してみたいと思う

 

 

なぜ本屋に人は殺到しないのか

 

「なんで本屋には人が押し寄せへんのやと思う?」

 

唐突な問いであった

それまでの会話の流れから完全に逸脱した、突拍子もない話であった

あまりにも突拍子がなかったので、その質問が投げかけられた場所すらちゃんと記憶している

三郷町あたりの都会ぶった交差点であった

 

問いを投げてきたのは高校の吹奏楽部の同級生

基本的に吹奏楽部は皆不仲であったので、未だに遊ぶ同級生は2人くらいしかいない

俺とそいつを乗せた車は信貴山朝護孫子寺へと向かっていた 初詣に行きたかったのである

 

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その後着いた朝護孫子寺

 

 

さてこの質問の意図することは何だろうか

書籍のコンテンツ力が弱くなっており、本屋から人が減っているという、出版業界の行く先を憂う話だろうか

それとも、実際には人は押し寄せているが、うまいこと店内のレイアウトを工夫して客の集中を緩和しているという、やり手の本屋の話だろうか

 

当然上記のような話ではなかった

もっと突拍子もない質問のはずである だからこそ未だに友人としてつるんでいる

 

 

質問の意図はこうであった

本屋の周辺に住む人々がある瞬間、一斉に本屋に行きたいという衝動に駆られることは十分に考えられる

その結果、本屋に溢れんばかりの人々が殺到するのではないか

また、そこまでの客の集中がなくとも、あるとき本屋に訪れた客の大半が三島由紀夫を目当てとしており、三島由紀夫コーナーだけ人が殺到する、なんてことも考えられる

 

しかし実際には、本屋はいつ訪れようが、どのコーナーも適度で快適な人口密度を保っているのである 

これはもしやすると、人の群れは適度に分散させられるようにコントロールされているのではないか?という問いであった

 

初詣前にこんな問いを投げかけてこないで欲しい

キショすぎる 車を降りようかと思った

しかしそれは非常に興味深いものであり、これは後付けではなく自分自身も何回か考えたことはあったが、深く考えないようにしていた問題であった

 

例えば仕事の昼休みによく丸亀製麺へと出向くのであるが、その丸亀製麺は梅田の一等地にあるにも関わらず人で溢れることはない

お盆にうどんを受け取ってから満席であることに気付いて右往左往する、なんてことは一回もなく、いつ訪れてもほぼほぼ満員であるにも関わらず、席が与えられない客は決して発生しない

 

いつも不思議に思っていたがあまり深く考えなかった

考えないように自分を制御していたのかもしれない

おそらく、厭な真実にたどり着いてしまうだろうなと薄々気付いていた

 

 

さて、ちゃんとこの問題に向き合うことにして、人間は何かしらの巨大な力によりコントロールされているという前提に立ってみる

そして、この前提に立ったときに問題となるのが、この大本営的な巨大組織のコントロール下に“自分が含まれているか否か”である

 

過去の記事では、自分以外の人間の自我の有無について懐疑的なことを書いている

 

buffaloes24.hatenablog.com

 

自分以外が自我を持っていることを確かめる術が一切ないのだから、こんなことを考えてしまうのも仕方ない

この記事の内容を汲み取ると、明らかな自我を持っている自分はその巨大なコントロール下には置かれていないと考えているように思われるかもしれないが、ここでは自分すら大本営の統治下に存在していると考えることにする

 

理由は、年末のドキュメント72hを見て泣いたからである

あの番組を見ると、人の生き様は多種多様でなんと美しいものだろうかと感動させられる

皆、自分と同じく自我を持っているはずであり、持っていてほしいという願望にすがりつきたくなるのである

なので、人類は皆自我を持っており、なおかつその上で、なんらかのコントロールを受けていると考えることにした

 

 

そうして振り返ると、俺が週に2回も3回も丸亀製麺に行かされることに無性に腹が立ってくる

どこかで発生する人々の流動の帳尻合わせとして、俺は無意識に丸亀製麺へと背中を押されるのである

実はうどん好きでもなんでもなく、単純に役割としてうどん屋の人口密度の維持に努めているだけなのかもしれない

 

 

日常を過ごす中で不意に湧き上がる衝動や欲望

これらは本当に自分の内部から発生したものだろうか

 

それは空から偶然的に降ってきただけの「役割」なのかもしれない

 

 

 

成果の出る趣味は苦しい

伸び悩んでいる 非常に

泥土に足を取られて全然前に進めない

 

伸び悩み たいていこういうのは仕事に関して用いられる

努力をしても成果が出ない 上司に認めてもらえない 資料作成がうまくいかない 等々

当然自分も仕事上でこれらの悩みはあるものの、それを凌駕する悩みが仕事以外の領域で発生している

 

趣味 の領域である

 

趣味での伸び悩み?とピンと来ない人もいるかもしれない

そういう人は「成果の見えない趣味」に興じられていると思われる

ここで当然のこととして断っておかないといけないのは、成果の有無によって優劣など一切つかないし、そういった意図で書いたものでもない

どんな趣味も総じて素晴らしいし、趣味に打ち込む人間は総じて美しい

 

さて成果の有無とはなにか

例えばカフェ巡り これは成果が見えないものである

いや、色んなカフェを巡った経験を人に語るとか文章にして発表するとか、そういうのは「成果」じゃないの?と思われるかもしれない

当然それも成果であることには変わりないので、ここで用いる「成果」とは、“趣味に興じている際に同時発生する成果”という意味づけをしておく

つまり、カフェを巡った経験を他人に伝えるのは、カフェ巡りとは同時発生するものではないので、ここでは成果ではないとする

 

では成果の出る趣味とはなにか

一番わかりやすいのは楽器だと思う

楽器に対し、息を吹きつける、指で弾いてみる等の衝撃を与えると同時に、成果!!!が楽器から飛び出す

最初のうちは、音が出るだけで「おおー成果出た!」と思ってキャッキャしていたのが、途中から音が出ること自体は当たり前のノルマになり、そしてその先の壁にぶち当たる

 

この「中級者の壁」は何事においても人間の自己肯定感を削いでくるし1番苦しい時期である

仕事でもこの壁に悩まされることはあると思うし、仕事のほうが死活問題となる

 

ただ、趣味の領域でこれが発生してもなかなかしんどい

そもそも趣味で始めている以上、当然興味のある事柄であり、逃げ出したくもない

よし頑張ろうと思って壁にぶち当たってみるけど、いつまでも壁は目の前にそびえ立ち、趣味でやってるはずなのに果てしなくイライラしてきて精神を消耗することがある

今まさにオーボエでその壁にぶつかっていて、月にレッスン代1万円、毎回スタジオ1時間500円、リード月3,000円程度、をつぎ込んでなんでこんなにイライラしないといけないのかと思うことがある

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リード1本3,000円 菅政権オーボエリードの値下げもお願い

 

 スキーでの経験

ここ数年同じように趣味のスキーにおいてもその壁にぶつかっていた

スキーに行くことは当然楽しいのであるが、滑ると同時に「成果」が足元でチラつく

うわー体重後ろに乗ってるなー とか 急斜面では板揃わんなーとか

これらは、スキーにおいては「パラレルの壁」と呼ばれるものであり、スキー中級者はこの壁にブチ当たる

ここでスキーをやめてしまう人も多いらしい それも納得できるくらい、これが難しい

そしてこのパラレルの壁は、スキーの純粋な楽しみを徐々に奪っていくようになった

 

しかし去年、ふとしたアドバイスで壁のへりに手が届いたような感触があり、ぐいっと体を引き上げると全く違う世界が見えたのである

まだその世界に到達はしていないけれども、少しだけその空気を吸うことができてわかったことがある

 

壁の向こうはヤバい もう酒池肉林

 

あの世界に行くことができればもう何も怖くないし、趣味を「生き甲斐」の域にまで落とし込むことができるのだろうなと確信できた

なので、オーボエもこの壁を超えればすごい世界が待っているのだろうなと思う

ただこの壁が高すぎて本当に心が折れそうになるので、同じような悩みを持っている人と励まし合いたい

誰か苦しんでいませんか

 

成果の排除

これらの問題に対する簡単な解決策は、成果を成果とみなさないことである

つまり、スキーをしているのは「足を鍛えるため」「運動不足を解消するため」「いい景色を見るため」

オーボエをしているのは「口周りをスッキリさせたい」「腹式呼吸で健康になりたい」 等、それらの成果を“目的”ではなく“手段”化してしまえばいいのである

 

当然、スキーもオーボエも愛している趣味なのでそんなことはしないが、最近通い出したジムにおいては徹底的にこれをしたいと思っている

 

ジムでの運動は、運動不足や筋肉増大等へ結びつき、それらはジムという空間内においては「目的」となり「成果」になり得るが、その空間を飛び出した先のスキー中に足をつらないとか、バッティングセンターで力強い打球を飛ばしたいとか、健康に生きたい等の目標を見据えると、それらは「手段」となる

反対に、運動の「目的」がジムの中の空間から出ることが無くなれば、それらの運動は直接「成果」となり、変な壁にぶつかって苦しむ気がするのである

そうなるとジムは特に愛してもいないので絶対長続きはしないと思う

なので、「何キロのバーベルを持ち上げたい」なんていう目標はあんまり持たないようにしているし、今日は何キロの重りを持ったなんていうのも記憶から消すようにしている

 

重たいものを持ってよく頑張ったね と、成果は一切無視してひたすら自己肯定感を高めるだけでいいのである

 

 

適度な距離を保ちつつ長く続けたい活動がある場合、成果を排除して、あえて趣味へと昇華させないというのも1つの方法かもしれないですね

 

というお話でした

  

スキーと天候の関係

初めてスマホから記事を書いてみる

どう頑張っても毎回2,000字を超えてくるので、今回は意識的に1,000文字以下に


さて今日の昼休み、ネットサーフィンをしてると面白そうな論文を見つけたから開いてみた

 


「旅行先での天候が顧客満足およびロイヤルティ意識に及ぼす影響」

http://www.jafit.jp/thesis/pdf/12_07.pdf


天気については前にも記事を書いたことがあって、これは間違いなく旅行の満足度に影響してくる

大雨の竹富島より快晴の淡輪ビーチの方が楽しいと感じる人は割と多いと思う


ただ論文の序盤にも書かれてあるように、天候は受け入れ側がどうこうできる要素ではないので、こういった論文は斬新やなと

 


しかし、読んでるうちに、気になる箇所があった

それは仮説検証のためのアンケート調査についての記載の部分

 

仮説検証のため、天候の影響を強く受けることが予見できる観光活動として、スキー場を選択。2009年12月から2010年3月にかけて、全国88箇所のスキー場にて、アンケート調査を行った。その手法は、スキー場にてアンケート実施中である旨を告知し、回答用のURLを提示。回答者は、携帯電話およびパソコンにて回答を行った。最終的に、14, 223サンプルの回収を行った。

 

違和感があったのは、「天候の影響を強く受けることが予見できる観光活動として、スキー場を選択」の文言

 

いや、スキーなんてご飯食べる時以外ずっと外にいるわけやし、天候の影響ゴリゴリ受けるんじゃないの?こういった調査にうってつけでは?

と普通は思うかもしれない

筆者も多分そう思ってる

 

ただ、スキーと天候の関係性 これは少々特殊なものとなる

 

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結論から言うと、旅行先での天候と満足度の関係を調査するにあたって、スキー場は適していないと思われる


理由は3点

 

①晴れが歓迎されるわけではない

この論文では、CSロイヤルティ水準を3つにわけており、高位を「晴れ、雪」、中位を「曇り、雨、霧」、低位を「吹雪、みぞれ」としている

"高位の方が満足度が高い"とは書かれていないけども、結論としては天候が満足度やサービス知覚に影響すると書かれているため、おそらく筆者は「晴れと雪はスキーヤーにとって喜ばしいもの」と思っている可能性が高い

しかし、雪への太陽の反射によって目を痛める、日焼けする等、晴れを嫌うスキーヤーも多い

晴れが歓迎されないようなアクティビティの時点で、天気と満足度の関係性を論じるには適していないと言える

 

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②雨なんて降らない

スキー場があるような地域、雨なんて降らない

全部雪になる

この論文では雪になれば晴れと同じカテゴリに分けられてしまうので、よくわからないことになる

 


③スキーは天候に左右されない

①も②も結局これに尽きる

スキーなんてどんな天候でも割と楽しい

ウェアは完全防水やしめちゃくちゃ暖かいから降雪も雨天も気温の低下もあまり気にならない

吹雪に遭えばさすがに辛いけども、そんなものそうそう遭遇しないし、ゲレンデの下の方へ行けば大抵止んでる

そのような点から、他の旅行行動での天候の変化とスキー中の天候の変化はまるっきし評価が変わってくる

ここまで天候によって満足度が変化しないアクティビティもなかなかないかも

 


ただこの筆者より自分の方が勉強していないのは自明なので、この筆者なりの考えがあったのかもしれないし、ちゃんと論文が理解できてないだけかも

この論文の問題提起自体は素晴らしいと思います

 

 

まあ対案なき批判もアレなので、もし自分がこういうことをするなら、

・直近に実施した旅行の目的地

・そのときの天候

・旅行の主目的

と、満足度やサービス知覚を関連づけて聞いてみたいかな

例えば旅行の主目的が温泉や寺社仏閣巡りならそんなに天候に影響されないかもしれないし、主目的がハイキングや山登りなら天候に影響されるけど、その中でも特定のハイキングスポットだけは雨でも高い満足度を出してるので、その要因はなんでしょう?とか、そんなのを出してみたら面白いんじゃないかなと

卒論も書いてないド素人の意見やけど

 

 

 

とりあえず今日読ませていただきました論文からの学びは、

 

"アンケート調査を行う際には、その対象グループが包含する特殊性(そのグループの中では常識的なこと)について理解しとかないといけない"

 

でした!

 

 

1,800字超えました ミスった